ウィルヘルム・ライヒ(Wilhelm Reich, 1897-1957)

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ウィルヘルム・ライヒの生涯の概略

ウィルヘルム・ライヒ(Wilhelm Reich, 1897-1957)は、1897年3月24日に、オーストリア・ハンガリー二重帝国のガリツィア地方(ドプルツィニカ)で裕福な農家を営むユダヤ人の家庭に生まれた。W.ライヒは13歳の時に母親を自殺で亡くし、17歳の時に心労で身体が弱っていた父親も死去しているが、思春期のトラウマになったとされる『母親の自殺』には、W.ライヒ自身が行った『母親の不倫の父親への報告』が関係していたという。父親は母を死に追いやったという罪悪感からか、毎日、真冬の凍った池に何時間も立ち続けるという行動を繰り返し、遂に肺炎を発症して亡くなったという。

13歳のライヒは、母親が家庭教師の男と不適切な関係を結んでいることを知り、母親が不倫をしているという事実を隠し通すことが出来なくなって、父親に報告してしまった。『妻の不倫』を知った父は激昂して、母の不誠実で破廉恥な振る舞いを責め続けたが、母はその倫理的な糾弾に耐え切れなくなったのか自殺してしまったのである。『母親の自殺』はW.ライヒにとって、まだ母親の精神的ケアを必要とする性格的に未熟な思春期に母親を失ったというトラウマだけでなく、自分がした父への不倫の報告が母親を自殺させて家庭を崩壊させたという深刻なトラウマをもたらしたと推測できるが、ライヒ自身が自分の親子関係の問題やトラウマについて分析的に言及することは殆ど無かった。

思春期のウィルヘルム・ライヒは『母親(母性的保護)を喪失したこと』『自分の発言が母親を死に追いやったこと』の二重のトラウマを受けたことで、家庭(夫婦関係)を破滅させて個人の人生をもめちゃくちゃにしてしまう『性欲(性的なリビドー)の分野』に強い関心を持つようになったのかもしれない。W.ライヒのリビドーの作用を重要視する独自の精神分析は、初期のフロイト以上の『汎性欲説(性一元論)』であり、性的リビドーのエネルギーの充足(抑圧の排除)によってあらゆる心理的・社会的問題を解決できるとするライヒの極論はフロイトとの深刻な理論的対立を生んだ。

ライヒは精神分析とマルクス主義(共産主義革命)の融合を試みる中で、性的抑圧の解放によって個人と社会の両方が理想的な状態に向かうという過激な『性革命理論』を着想するようになる。個人の心理問題と社会の矛盾の全ての原因が、『リビドーの停滞(性的欲動の不充足)』にあるとする常識からやや離れた主張をするようになるが、その性エネルギーの充足だけに偏った主張はフロイトの精神分析からもマルクス主義の政治団体(共産党)からも受け容れられることは無かった。

W.ライヒは第一次世界大戦に従軍して復員した後に、ウィーン大学法学部に入学したが、医学・精神分析への関心が高まってきたことでウィーン大学医学部に入り直して、精神科医になるための大学教育・専門的訓練を受けた。ライヒがかねてより憧れていたフロイトに初めて会ったのは1920年の23歳の時である。ウィーン精神分析学会に加入してフロイトから直接的に教育を受けながら、生殖(子孫存続の目的)とは異なるセクシャリティ(性的事象・性的陶酔)を生み出す『リビドー(性的欲動,libido)』について熱心な研究活動を行うようになっていった。

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W.ライヒは幼児性欲の存在を肯定し、リビドーによって人間の行動がすべて決定されるという初期のフロイトの立場を敷衍して、鬱積したリビドーを解き放つ『オルガスム(性的興奮の絶頂)』を人間の精神の健康を保って人生に価値を与える究極の目的とした。S.フロイトは鬱積したリビドーがあらゆる精神疾患や人格障害、社会問題を生み出していて、そのリビドーをオルガスムで解放すれば良いとする『ライヒの性一元論の仮説』を性器性欲に偏りすぎているとして好まなかった。

自信過剰で自分を曲げない頑固なところのあるライヒは、イシドール・ザドガーやパウル・フェダーン、サンドール・ラドーといった先輩の精神分析家から『教育分析(スーパービジョン)』を受けたが、創始者のフロイトから教育分析を受けたいという願いは叶えられず、そのストレスと不満で抑うつ神経症的なノイローゼを発症したという。W.ライヒは後に生物学的オルゴン療法を自称するようになる『植物神経療法』を開発して、過去の強い情動体験と相関した筋緊張を身体的なマッサージを用いて取り除こうとする独自の精神療法を深めていった。

マルクス主義の政治哲学や左派の政治活動にも精力的に取り組んでいたライヒは、1922年に医学博士号を取得した後、『オーストリア社会民主党』『ドイツ共産党』に入党して社会改革の革命思想と心理変革の精神分析を実践的に統合しようとする特殊な実験的試みをするようになった。『ゼクスボール(性政治学研究所・出版社)』という大衆の性の解放と社会的抑圧の排除を目指す研究所を創設して、『若者の性的闘争』といったパンフレットを作成・配布したりもした。

しかし、『労働者階級の性的抑圧からの解放』によって社会経済問題のすべてが解決し精神的にも満たされるというライヒの理想郷のアイデアは、ドイツの共産主義者には受け容れられなかった。未成年の避妊教育や堕胎する権利などの『非マルクス主義的な有害思想』を流布する者として、ライヒは遂にドイツ共産党から除名されることになった。

アドルフ・ヒトラーが指導するナチスがドイツの政権を掌握した1933年には、亡命先のデンマークで『ファシズムの大衆心理』という論文を書いた。ナチスが扇動したファシズムは性的に抑圧された潜在的なノイローゼ患者たちが、サディズムに目覚めた集団心理の現れだとした。ナチス・ドイツによるユダヤ人排斥が激しくなってくると、ユダヤ系であったW.ライヒは1934年にデンマークからノルウェーへと更に亡命した。

1934年には、S.フロイトの正統派精神分析から甚だしく逸脱した理論を唱えていたライヒは『ユダヤ人』であるという理由もあって、『国際精神分析学会』から除名されている。ノルウェーのオスロ大学では、生理学的基盤を持つ精神分析的な性科学の研究に興味を持ち、滅菌した肉汁中に小胞(バイオン)を確認して、1939年にバイオンを構成する『オルガン(オルガスム)』という宇宙エネルギーを発見したと主張した。

ライヒの性の解放やオルガン・エネルギーを中心とした理論は、オーストリアでもノルウェーでも受け容れられず、精神分析にもマルクス主義にも適応することができなかったが、1939年にアメリカに亡命してニューヨークに居住することになる。アメリカでは『ニュー・スクール・フォア・ ソーシャル・リサーチ(New School for Social Research)』という研究所で、准教授の身分を得て医学心理学を教えたりしていたが、フリースクールの先駆けであるサマーヒル・スクールを設立したA・S・ニイルに精神分析を行ったりもしている。

宇宙エネルギーを集めてあらゆる病気や性機能障害を治せるという詐欺的な『オルゴン・ボックス』を販売したことで、ライヒは米国食品医薬品局から『薬事法違反』で摘発され、裁判所で『オルゴンエネルギーを暴発させて大洪水を引き起こしてやる』という意味不明な挑発的発言をしたため、法定侮辱罪で有罪判決を受けて刑務所に収監されることになった。投獄されて精神鑑定を受けたライヒはオルゴン・エネルギーに取り付かれた『妄想型統合失調症』という診断を受けることになり、1957年11月3日に、ペンシルバニア州にあるルイスバーグ刑務所で心臓発作を起こして死去している。

ウィルヘルム・ライヒの精神分析理論とマルクス主義の政治思想

ウィルヘルム・ライヒは『オルガズムの機能(1926年)』で、抑圧されて蓄積したリビドーをオルガズム(性的興奮の絶頂)で解放することで、神経症を治癒して精神の健康を維持することができるという独自の精神分析理論を提唱した。W.ライヒの性の解放やオルガズムをベースとする性革命理論は、S.フロイトの正統派精神分析(自我心理学)に認められることは無かった。だが、性格構造に由来する『抵抗』の分析と解決を取り扱った『衝動的性格(1925年)』『性格分析(1932年)』は、自我心理学の面接技法や防衛機制(性格防衛)の捉え方に大きな影響を与えている。

精神分析療法のセッションではクライエント(患者)の多くは、自分の幼少期の記憶や内面的な世界の分析を進めていくことに『抵抗』するが、その様々な抵抗は自由連想が思い浮かばなくなったり面接時間にいつも遅刻したり、分析家の解釈・助言を激しく否定したり、分析行為が恐ろしく感じたりといった反応になって現れる。W.ライヒはこの『抵抗』のバリエーションに、クライエント(患者)のその人らしさとしての『性格』が投影されていると考え、今までの人生で積み上げてきたその性格行動パターンを自覚して修正していくことが神経症の治療につながっていくという新しい精神分析の治療法を提示した。

W.ライヒは手足の振るえや不安感・恐怖感、強迫観念、抑うつ感といった『個別の症状』に注目した精神分析治療を行うのではなく、クライエント(患者)の今までの人生の生き方や考え方、関係性が反映された『全体的な性格』を分析して改善していかなければならないと考えたのである。W.ライヒは『性格』を日常的・慢性的な自我防衛の現れであると定義して、抵抗を生み出す性格構造のことを『性格の鎧』と呼んだが、ライヒの精神分析の要点は一つ一つの抵抗を分析・解釈しながら性格の鎧を解体して外していくことにある。

『性格の鎧』は社会規範や文化的訓練によって強固なものになっていくが、外界からの刺激や内的なリビドーの衝動から自分を守ってくれるこの性格の鎧も、余りに強固になりすぎるとリビドーの鬱積が増して神経症の原因になってしまうのである。W.ライヒは言葉として表現される『言語的コミュニケーション』だけではなくて、表情や態度、声の調子(抑揚)、ジェスチャーとして表現される『非言語的コミュニケーション』にも注目して、クライエント(患者)に自分がどのような非言語的コミュニケーションをする癖があるのかを自覚させた。つまり、自分で自分の『抵抗』の表現形態を認識できるようにして、その抵抗とそれを生み出す性格の鎧を自発的に解消できるように誘導していったのである。

ウィルヘルム・ライヒの『性格分析』によって抵抗(性格の鎧)を解除していくという解放主義の技法は、『未開人の性生活』を書いた人類学者マリノフスキーから影響を受けたとされるが、その後に、自我心理学を主導するアンナ・フロイト『自我防衛機制の分析』へと発展していった。社会学や文化人類学の見地も採用した『性格分析』では、ヨーロッパの『父性原理に支配された家父長制社会・核家族構造』を神経症を引き起こしやすい抑圧的な社会構造として非難し、太平洋島嶼部に残っていた『母性原理に支配された母権社会・大家族構造』を性的な抑圧の少ないのどかで健康な社会構造だとして評価している。

ウィルヘルム・ライヒの思想は次第に、個人・治療を対象にした精神分析から、社会・政治を対象にした政治思想へと発展するようになり、『精神分析』『マルクス主義(共産主義)』の統合による革命的な社会改革を志向するようになる。だが、師であるフロイトはこのような社会改革や性革命、共産主義革命には全く興味を持っておらず、理論的・世界観的な対立は深まっていった。ライヒの思い描く理想的な共産主義社会は、リビドーが社会規範で抑圧されず万人の性が自由に解放されているという社会であり、正統派のマルクス主義が主張する『プロレタリア独裁・生産手段の共有と財の配分の平等』とはかなりかけ離れたものだった。

ライヒは1933年に性欲に偏った異端なマルクス主義を唱導しているとして『ドイツ共産党』から除名され、1934年にはユダヤ人かつコミュニスト(共産主義者)であることを理由に『国際精神分析学会』からも除名されたが、ライヒの人生は全体を通して『組織活動に対する不適応・過激な極論による思想的対立』に彩られていた。1939年にアメリカに亡命してからは、リビドーの性的エネルギーを科学的に証明する研究に没頭するようになり、宇宙に遍在していて青色の光を発する『オルゴン・エネルギー』を発見したと主張するようになる。

全ての生命体の活動や宇宙・地球の現象の原因になっているとするオルゴン・エネルギーは、W.ライヒが想像しているだけの非科学的でオカルトなエネルギーに過ぎなかった。しかし、カリスマ性と弁舌の才能があるライヒの周囲には信奉者が集まるようになり、オルゴン・エネルギーを浴びて病気を治すという『オルゴン療法』を希望する人たちのカルト的な集団が形成されていった。ライヒは通称『オルゴン・ボックス』と呼ばれるオルゴン・エネルギー・アキュミュレーターの治療機器を開発して病気治療を行ったが、何の医学的根拠・治療効果もないこの非科学的な治療法は米国食品医薬品局によって摘発されることになる。

W.ライヒの『性格分析』を軸とした心理療法分野における貢献としては、『禁欲原則』で身体接触を禁止している精神分析に、クライエントの筋肉の緊張をマッサージでほぐしたり安楽な呼吸法(自己暗示的な弛緩法)を指導したりという『心身医学的な方法論』を導入したことがある。ライヒはこの一連の治療法を『自律神経療法(ヴェジトセラピー)』や『植物神経療法』と呼んでいたが、ライヒから性格分析と植物神経療法の指導を受けたアメリカの精神科医アレクサンダー・ローウェン『生体エネルギー療法(バイオ・エナジェティクス)』へと発展させている。

バイオ・エナジェティクスを『生体エネルギー療法』と名づけて紹介したのは、東京大学医学部付属病院分院教授で同心療内科科長だった石川中(いしかわひとし)と九州大学医学部教授の池見酉次郎(いけみゆうじろう)であるが、この二人は日本に初めて『心身医学』を導入して大学病院に心療内科を創設した功労者としても知られている。池見酉次郎は自律訓練法やセルフコントロールなどの『ボディワーク』の権威として活躍した精神科医でもあり、『身体と精神の相関関係・相互作用』に注目した心身医学の治療法の開発に尽力した。

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