O.アンナ(O.Anna, 1859-1936)

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O.アンナの症例と精神分析の始まり

O.アンナ(O.Anna, 1859-1936)は、S.フロイトが『精神分析の研究』を始めるきっかけとなった女性のヒステリー患者です。O.アンナは本名をベルタ・パッペンハイム(Bertha Pappenheim)というユダヤ人の女性で、初めは神経科の開業医だったヨゼフ・ブロイアー(Josef Breuer, 1842-1925)の元でヒステリー症状の治療を受けていました。ジークムント・フロイトとヨゼフ・ブロイアーは旧知の友人であり、フロイトはブロイアーからO.アンナ嬢の症例と回復の過程を聞くことによって、精神分析の治療機序の着想を得ることになったと言われています。

O.アンナがJ.ブロイアーに訴えていたヒステリーの心身症状は極めて多彩であり、初めは『神経性咳』の咳発作の症状を訴えていたのですが、その後、身体の衰弱・知覚障害・四肢の運動麻痺・拒食症(摂食障害)・言語障害・視覚異常などの症状が次々に現れてくるようになります。ウィーンで開業していたブロイアーは、ヒステリー症状で苦しむO.アンナに色々な治療法を試しましたが、最終的に最も効果があったのはO.アンナが『談話療法(talk therapy)』と呼んだ思っていることを何でも遠慮せずに話すという治療法でした。

談話療法は『(心の)煙突掃除』というメタファーで語られたこともありました。名前は似ていますが、統合失調症(スキゾフレニア)を発見したブルクヘルツリ病院のオイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler, 1857-1939)と、O.アンナを診察したヨゼフ・ブロイアー(ヨゼフ・ブロイエル)は別人ですので注意してください。

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O.アンナは自分で自分に催眠暗示を掛けることができる『自己催眠』が得意な体質だったようで、自己催眠状態の中で『忘れていた過去の嫌な記憶・感情』を思い出して語る度に、少しずつヒステリーの心身症状が和らいでいきました。O.アンナは21歳の時に初めてブロイアーに診療を受けましたが、彼女の性格特性については『聡明な思考力・利発な知性と鋭い直観力・豊かな教養と深い知識・記憶力の高さ・意志の強さ・病者への慈悲深さ』などの長所・美点がブロイアーによって伝えられています。O.アンナに対するブロイアーの心理療法は1880年12月から1882年6月まで続きましたが、最後はO.アンナの『陽性転移感情(恋愛妄想・想像妊娠)』によって治療関係が破綻することになり、ブロイアーは妻と一緒にO.アンナとの面会を避けて旅行に出かけたとされています。

J.ブロイアーがO.アンナに心理療法をしている時期には、精神分析の『転移(transference, 転移感情)』という概念そのものが考案されておらず転移分析という技法もなかったので、ブロイアーはO.アンナの転移感情に上手く対処できなかったのではないかと推測されています。O.アンナ嬢はブロイアーの元を訪れた21歳の時点まで異性との恋愛経験が無く、自分の感情を過度に抑圧する傾向が見られていましたが、ヒステリーを発症させる原因となったのは『重症の父親の介護にまつわる感情的葛藤』であったと考えられています。O.アンナは不治の病に罹っていた父親を献身的に介護・看病していましたが、介護の途中で食欲が大幅に減退して身体衰弱の状態に陥り、神経性咳が出て止まらなくなったのでした。

『ヒステリー研究』の共著と自由連想・心的外傷の発想

O.アンナ嬢には『解離性障害(解離性同一性障害)』と類似した二重人格の症状も現れており、『上品で高い教養と共感性がある正常な人格』『下品で無教養な態度や卑猥な発言をする病的な人格』とが交互に出現したといいます。

1881年4月に看病していた病気の父親が死去すると、O.アンナのヒステリー症状は更に悪化していきましたが、J.ブロイアーとの間で過去の記憶や情緒を回想していく『談話療法』を行ったところ、次第に症状は回復に向かっていきました。O.アンナには夏の暑い季節に『コップから水を飲めない』という神経症の強迫的な症状も出ていました。談話療法を展開していく中で、アンナが嫌っていた女性使用人が、『犬』にコップでそのまま水を飲ませていたという記憶が思い出されました。その女性使用人や犬への水の与え方に対する嫌悪感が元で、アンナがコップから水を飲めなくなっていたことが分かったのです。

O.アンナの神経性咳の症状が自覚され始めたのは、『ダンス音楽』が何処かから聞こえてきた時でしたが、これはアンナが重病の父親の看病をしている時にダンス音楽を聴いて、『私も家の中で看病ばかりしていないで、みんなと同じように楽しくダンスを踊ったりして遊びたい』という欲求を無意識的に感じたからだとされています。即ち、『若者らしくダンスを踊って楽しみたいという欲求』が『今は遊びのことなんか考えずに、父親を献身的に看病しなければならないという道徳観(良心)』によって抑圧されたのであり、ダンス音楽と遊びを結びつけた自分にO.アンナ嬢は強い罪悪感と自己嫌悪を感じたのでした。

J.ブロイアーはO.アンナに行った心理療法のことを『催眠浄化法(hypno-catharsis)』と呼びましたが、その心理療法の作用機序は抑圧された記憶(心的外傷)を感情を伴って言語化することによる『除反応(abreaction)』でした。S.フロイトは親しい友人だったJ.ブロイアーから『O.アンナの症例』の具体的な内容を聞いて、フロイトとブロイアーは共著で『ヒステリー研究(1895年)』を発表しました。S.フロイトはO.アンナの症例で実施された談話療法や催眠療法をアレンジして、精神分析の自由連想や夢分析を着想しましたが、J.ブロイアーはフロイトの主張する『無意識の概念・性的欲求の抑圧の病理学』を受け入れることはありませんでした。

S.フロイトは『ヒステリー研究』を発表した翌年の1896年から『精神分析』という言葉を用い始め、受け容れたくない不快な欲求(性欲)・記憶が『無意識の領域』に抑圧されることで神経症が発症するという仮説を唱えるようになります。つまり、『無意識』へと抑圧された激しい感情や性的衝動が、『四肢の麻痺・手足の振るえ・情緒不安定・知覚障害・運動障害(失立失歩)・不安感・対人恐怖・強迫観念』といった神経症症状に転換されるというメカニズムをフロイトは主張したのです。

頭脳明晰で社交性と行動力に秀でていたベルタ・パッペンハイム(O.アンナ)は、ヒステリーを克服した後に、児童・女性の社会福祉の充実に尽力する先駆的なケースワーカー(慈善活動家)として活躍しました。ベルタ・パッペンハイムは『ユダヤ婦人連盟』を結成して、女性の参政権獲得運動も精力的に行ったことで知られています。1954年には、西ドイツで彼女の社会事業・社会福祉活動・ソーシャルワークを賞賛する記念切手も発行されています。

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