O.F.カーンバーグ(O.F.Kernberg, 1928-)

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1928年に、ユダヤ人としてオーストリアの首都ウィーンで誕生したオットー・F・カーンバーグ(O.F.Kernberg, 1928-)は、ナチスドイツの政権下で弾圧を受けた両親に連れられて幼少期を南米のチリで過ごしました。医師免許を取得してからアメリカ合衆国へ渡り、アメリカの精神分析臨床の拠点でもあったメニンガー・クリニックに勤務しました。O.F.カーンバーグは、メニンガー・クリニックでS.フロイトやアンナ・フロイトが築いた正統派精神分析(自我心理学)の理論と技法を習得して、アメリカ精神分析学会で大きな役割を果たすことになります。

しかし、後年は、対象関係論の始祖であるメラニー・クラインの理論に強い示唆を受けるだけでなく、「自己表象と対象表象」の相互作用を重視したイーディス・ジェイコブソンの心理観にも共鳴しました。その結果、カーンバーグの境界性人格構造(BPO)を代表とする精神分析理論は、正統派精神分析(自我心理学)をベースとしながらも、内的対象関係や原始的防衛機制を重視する対象関係論の要素を取り込んだ折衷的理論となっています。

カーンバーグは、自らの精神分析家としての基盤を形成したメニンガー・クリニックで院長になりますが、その後も、ニューヨーク病院の院長やコーネル大学医学部精神科教授という精神医学界の重要なポストを担うことになります。自我心理学派の権威ある学術賞ハルトマン賞を受賞して、国際精神分析学会の副会長と会長も勤めたカーンバーグは、名実共に、アメリカの精神分析学の歴史を代表する人物といえるでしょう。カーンバーグの境界性人格構造(BPO)の病理メカニズムや精神構造の理論は、DSM-Ⅲの境界性人格障害(BPD)の診断基準や臨床像にも大きな影響を与えていて、現在でも境界性人格障害を含む境界例研究では重要な参照理論となっています。

20世紀末になると、エビデンス・ベースドな臨床心理学の隆盛と生物学主義に依拠した薬物療法中心の精神医学によって、精神疾患に対する心理療法(精神療法)としての精神分析の地位は大きく揺らぎました。しかし、自我構造の力動や無意識の葛藤(防衛機制の過剰や精神発達の停滞)によって病態を説明する精神分析的な精神病理学(異常心理学)は、今でも、病因論や心理メカニズムの分野では重要な理論の一つです。ロールシャッハ・テストやバウム・テストなど投影法の心理アセスメントの領域でも、無意識領域の感情や葛藤を投影するという精神分析の心理観が根底にあると考えられます。

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O.F.カーンバーグの境界性人格構造(BPO)

カーンバーグの定義した特異的な人格構造である境界性人格構造(BPO, 境界人格構造)を説明する前に、境界例(Borderline Case, 境界線例)の病理概念と臨床像の歴史的変遷を振り返っておきたいと思います。境界例(Borderline Case)という精神病理の概念が完全になくなったわけではありませんが、現在の精神科臨床で精神障害の診断基準のスタンダードなマニュアルとなっているDSM-Ⅳ(DSM-Ⅳ-TR)では、境界例という病名は存在せず『境界性人格障害(Borderline Personality Disorder)』という診断名が用いられるようになっています。この境界性人格障害(BPD)の病理構造と診断基準は、後述するカーンバーグの境界人格構造を踏まえて作成されたものです。

カーンバーグの境界例研究が具体的な研究論文として発表され始めるのは1960年代以降ですが、1950年代までの境界例(Borderline Case)の病態の定義は『精神病と神経症の中間領域の症候群を示す病的状態』という曖昧で不正確なものでした。1950年代の境界例の疾患概念は『病気‐健康の対立軸上』にあり、激しい興奮や軽い幻覚などを伴う境界例の症例では、精神分裂病に隣接した重篤な神経症(パラノイア)疾患のように認識されていました。当時から、典型的な境界例の患者の特徴としてよく見られる『不安定な対人関係・衝動的な攻撃性・依存的な嗜癖行為・自我発達の未熟性』などは知られていましたが、カーンバーグ以前には境界例は飽くまで精神疾患の一つであり、人格構造の障害や異常として境界例を考えることはありませんでした。

O.F.カーンバーグは、1950年代に精神病と神経症の中間にある疾患と考えられていた境界例の概念を、『境界性人格構造(BPO, Borderline Personality Organization)』という人格障害の先駆けとなる構造を用いて再構築しました。

1930年代にも、ウィルヘルム・ライヒ衝動性格(impulsive character)H.ドイッチェかのような人格(as-if personality)フロシュ精神病的性格(psychotic character)という人格障害(性格障害)を示唆する概念はあったのですが、フェダーンの潜在精神病(latent schizophrenia)エクスタイン境界分裂病(borderline schizophrenia)のような精神病への接近を強調する概念もありました。何より、ライヒやドイッチェといった精神分析家は、カーンバーグのように境界例研究に限定した精緻な理論化や効果的な臨床技法の模索を行っていませんので、境界例の一般的定義を確定するような影響力を持つことはありませんでした。

1950年代には、精神病の前駆症状や神経症(ヒステリー)の重症事例、発達早期(口唇期)への退行と固着による精神障害と見なされていた境界例ですが、カーンバーグは精神疾患の一つとして境界例を定義するのではなく、特異的な人格構造の現れとして境界例を理解すべきだと考えました。即ち、『病気‐健康の対立軸に依拠した精神疾患としての境界例』の視点だけではなく『標準(一般)‐特殊の対立軸に依拠した人格障害(性格障害)としての境界例』の視点を取り入れたことになります。

人格構造を診断基準として精神医学的な病態を判定する場合には、『精神病的人格構造(PBD)・境界性人格構造(BPD)・神経症的人格構造(NPD)』の3段階で判定することになります。

カーンバーグの定義した特異的な人格構造が、『境界性人格構造(BPO, Borderline Personality Organization)』であり、観察される精神状態や問題行動は、精神分裂病(統合失調症)・うつ病・神経症と類似していますが、それらとは異なる非適応的で特異的な人格構造であるとされます。カーンバーグは、境界性人格構造(BPO)の特徴として『自己同一性の統合の広汎な領域における障害・発達早期に見られる原始的防衛機制・現実検討能力の維持』を挙げました。自己同一性の統合の障害というのは、原始的防衛機制である『分裂(splitting)』が用いられることによって対象表象が分裂し、それを知覚・認知する自己表象も分裂しやすくなる不安定な自我状態を指示しています。

カーンバーグは、境界性人格構造(BPO)と精神病(統合失調症)の違いは、現実吟味能力や見当識の有無にあると述べました。BPOの患者は、陽性症状(幻覚妄想)のある精神病患者のように現実状況と空想内容を混同することはなく、認知症(痴呆)のように自分の名前や住所を忘却する見当識障害を起こすこともないということです。

更に、疾病分類学上の重要なポイントになるのは、境界性人格構造(BPO)と神経症の違いです。カーンバーグは両者の違いについて、BPOの患者は原始的防衛機制を主に使うことで深刻な環境不適応を起こすが、神経症患者は抑圧や知性化・合理化・反動形成・隔離といった成熟した高度な防衛機制を使うことでそれほど深刻な不適応には至らないと考えました。現在の精神医学分野では神経症概念が消滅していますが、このBPOと神経症の防衛機制の違いは、心理力動論的に境界性人格障害の病理メカニズムを考えて有効な治療法略を立てる場合に重要になってきます。カーンバーグは公的には正統派の自我心理学の重要人物ですが、対象関係論の力動的精神医学の影響を強く受けた理論家でもあります。

乳幼児の内的対象関係や無意識的幻想を基盤にしたメラニー・クラインの早期発達理論で、欠かす事が出来ない乳幼児の精神機能が原始的防衛機制であり、原始的防衛機制には以下のようなものがあります。BPOの最も重要な防衛機制として『分裂(splitting)』がありますが、この概念自体はメラニー・クライン『妄想‐分裂ポジション』で母親と相互作用しながら展開する乳児の心的生活を説明するために用いられたものです。

BPOに特徴的な原始的防衛機制
分裂(splitting)「分裂」では、対象(人物・物事・状況)に「良い側面」と「悪い側面」の両方が並存していることを認識できず、対象を「良い対象」と「悪い対象」のどちらかに分割(分裂)して極端な価値判断(認識)をしてしまう。対象には良いか悪いかのどちらかしか存在しないという極端な二分割思考を得ることで、人間関係の複雑さを回避して問題状況の困難を無視しようとするのである。分裂は対象表象(対象の内的なイメージ)に対してだけでなく、「自己表象」及び「性衝動・攻撃性の欲動」に対しても起こってくるので自我の発達に必要なリビドー(心的エネルギー)を備給することが難しくなる。
原始的投影(primitive projection)BPOでは、自分の内部にある容認しがたい欲望や情動、悪い自己表象を外部世界(対象)に投影しようとする防衛機制が働く。その結果、自分が持っていたはずの攻撃衝動や迫害欲求をあたかも他人が持っているように感じてしまい、外部世界を迫害の危険や他人の悪意に満ちたものだと間違った認知をしてしまう。自分の内部にある「悪い表象や欲動」を外部に投影することで不安を防衛する代償として迫害的恐怖を感じるようになってしまう。反対に、「良い表象や欲動」を対象に投影した場合には、理想化の防衛機制が働いてその対象が自分を保護して愛してくれると思うこともあるが、理想化は対象の些細な感情表現や発言で崩れるので長続きしない。
投影同一視(projective identification)自分の内面にある攻撃衝動や怒りの感情を相手に投影すると、自分の内部に不快な感情がなくなる一方で、自分の外部の対象や状況に「迫害的恐怖」を感じるようになってしまう。その迫害的恐怖を防衛するために、攻撃欲求や怒り、憎悪を投影した相手と一体化して、迫害される前に攻撃しようとする。悪意ある感情を投影した相手を何とか幼児的万能感に従わせる形でコントロールしようとするのが、この投影同一視の原始的防衛機制である。自分の悪意を相手の内面に投影し、それに恐怖を感じて報復攻撃を加えるという自作自演的な防衛機制であり、自他未分離な自我機能の発達不全を感じさせる不適切な防衛である。投影同一視は、内的対象関係の間で発動されるのではなく、実際の対人関係場面や行動パターンとして発動されることになる。
否認(denial)現実状況や他者の行動の客観的認知を否定するのが、原始的な否認の防衛機制である。否認の防衛機制を頻繁に用いるBPOの人の言動には、一貫性や論理性がなく、時と場合によってそれまで言っていたこととは正反対の矛盾した言動を取ることがある。否認は、客観的な状況認識や他者理解を無視することで、「過去の自分」と「現在の自分」の連続性を否定し感情的葛藤を防衛することができる。しかし、その代償として、不適応な「分裂」機制を強化するだけでなく、物事を極端に一面化する「原始的理想化」や「脱価値化」を正当化するような役割を果たすことになる。
取り込み(introjection)「分裂」の防衛機制で「良い対象(理想化された対象)」と「悪い対象(脱価値化された対象)」を二極分化させて、良い対象表象の持つ特徴や能力を自己表象の内部へ取り込むこと。「取り込み」の根底には、自分が欲求するものは何でも自由自在に獲得できコントロールできるという幼児的万能感がある。取り込んだ「良い対象表象」と自己表象の関係は、表面的には自己が対象に従属しているようにも見える。しかし、基本的に、「自分には理想的な他者を自由に利用できる圧倒的な力がある」という幻想的な全能によって「取り込み」は支えられている。
原始的理想化(primitive idealization)「良い対象」と「悪い対象」に分裂させた対象のうち、「良い対象」の価値を引き上げて理想化することで、「悪い対象」の脅威から自分を守り、自己表象の安全を確保しようとする防衛機制である。「良い対象」を過度に賞賛してその価値を高く評価するが、そこに愛情・共感・尊敬といった対象に対する肯定的な感情は伴っておらず、「自分の安全や利益に役立たなければ切り捨てる(攻撃して破壊する)」という脱価値化の防衛機制とセットになっている。
脱価値化(valueless)原始的理想化とペアになっているのが脱価値化であり、対象の評価を極端に低くしてその価値を不当に貶め、「無価値なものに過ぎない」と切り捨てる防衛機制である。ここでいう「悪い対象」とは、自分の安全を脅かし、自尊心を傷つけ、フラストレーションの原因となる対象表象のことである。原始的理想化の賞賛や肯定によって、価値を極端に引き上げられた対象でも、自分の利益(欲求充足や安全保護)に貢献しなければ脱価値化の防衛機制が働いてその対象は無価値なものと判断され切り捨てられることになる。BPO患者特有の「両極端な対人評価と不安定で対立の多い対人関係」は、原始的理想化と脱価値化の繰り返し(反復)によって起こってくるのである。

BPOの特徴として自我の脆弱性や精神発達の未熟と言われるものがありますが、これは境界性人格障害に頻繁に見られる『見捨てられ不安・見捨てられない為の狂気的な努力や貢献』あるいは『セックス・飲酒・薬物への依存的行動パターン(嗜癖問題)』と密接な関係があります。カーンバーグがいう自我の脆弱性としては、『孤独耐性や不安耐性の弱さ』『衝動的欲求のコントロール困難』『原始的本能の昇華(sublimation)による充足経路の欠如』などがあります。対象関係論のマスターソンは、特に孤独耐性の低さによる『見捨てられ不安』が、BPOの中核的症状であるとして重要視していました。

メラニー・クラインは『分裂(splitting)』を発達の極初期に用いられる防衛機制とし、成長して以後に用いられる分裂は、現実事象を歪曲する精神病圏の防衛機制に該当すると考えました。一方、O.F.カーンバーグは、『分裂(splitting)』をBPOに特異的な防衛機制と定義して、精神病圏に見られるような現実検討能力を障害するレベルの防衛機制ではないと考えました。境界性人格障害患者を対象とする多数事例の臨床研究や統計調査でも、どちらの防衛機制の考え方が正しいかの決定的な反証は出ていませんが、完全に対象を二極化して「良い・悪い」を判断してしまう分裂機制を用いる精神病患者(統合失調症者)が多いのもまた事実です。

BPOの人格構造が深く関与する自己愛性人格障害の病因論を巡って、生得的な遺伝要因を強調して生物学主義に立脚しようとするカーンバーグと後天的な発達早期の親子のコミュニケーション障害など環境要因を強調するインターパーソナル(対人的)なコフートの間に対立があったが、この論争もどちらが正しいかの結論は出ていません。

BPOの精神療法(心理療法)の技法選択と治療計画に関してカーンバーグは、BPOの投影同一視や陰性感情転移(憎悪・攻撃性の感情転移)を精神分析的面接の初期から取り上げることの重要性を指摘しています。更に、対象関係や転移感情を中立的に分析する表現的精神療法とBPOのクライエントを精神的に保護する支持的療法の折衷的技法を提案しています。

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