ダニエル・パウル・シュレーバー(『シュレーバー症例』)

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ダニエル・パウル・シュレーバーのパラノイアの発症

ダニエル・パウル・シュレーバー(D.P.Schreber, 1842-1911)は、ジークムント・フロイトが直接的に面接せずにシュレーバーの自叙伝だけを材料として精神分析を実施した『シュレーバー症例』で知られる人物である。ダニエル・パウル・シュレーバーはドレスデン控訴院民事部部長(元ザクセン州控訴院院長)という法曹の高級官僚として立身出世を遂げたが、長きにわたって幻覚妄想・神秘体験・恍惚(陶酔感)が発生する『パラノイア(偏執症)』の症状に苦しめられていた。

ダニエル・パウル・シュレーバーは、医学博士でライプチヒ大学医学部で臨床医を指導する父のダニエル・ゴットリープ・モーリッツ・シュレーバーと医師が多い名門の家柄出身の母との間に生まれて、父親が全てを決定する厳格な息苦しい雰囲気の家庭で育てられたという。ダニエル・ゴットリープ・モーリッツ・シュレーバーは当時のドイツの医学会・教育会の分野で名声を得ていた権威的な人物であり、社会教育の効果を持つとされる保健体操の『シュレーバー体操』を開発したことでも知られ、家庭内では自分に逆らったり反論したりすることを許さない暴君として振る舞い続けた。

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母親も暴君のように支配する父親に対して従順で、父親をもっと尊敬して言う事を聞くようにという躾を子供達にしていたが、父親が重要視した家庭内のルールは『我慢・断念(諦めること)を学ぶこと』だった。父親はまだ小さな乳児(赤ちゃん)であるシュレーバーに対して、『食欲の我慢を学ばせるため』という理由で計画的な授乳制限を行って、どんなに泣き喚いても決まった時間が来るまでミルクを与えず、現代でいえば殆ど虐待に近いような育児方法を強制していた。

余りに理不尽かつ支配的で一切の自由が許されない厳しい家庭教育を受けた影響なのか、シュレーバーの兄であるグスタフは裁判官(判事)に任命された後に自殺して亡くなっている。兄と同じく法曹の道を志して裁判官になったシュレーバーだったが、身分違いの恋を乗り越えて結婚した妻ザビィ(ライプチヒの劇場の演出家の娘で家柄が好ましくないとの理由で結婚に反対されていた)との関係が上手くいかなくなり、立候補した国会議員選挙にも落選した1884年秋に、初めて病的な精神状態を体験することになった。

自分の健康状態や心の正常性に関する妄想・幻覚に苦しめられたシュレーバーには、『父親を尊敬しながらも憎悪・反発する』といったエディプス・コンプレックスにも似たアンビバレンツな心理的葛藤があったとされている。1884年の初めての発病の時期に、主治医であったフレヒジッヒ博士『重症度の高い心気症』という診断を下して入院治療を勧め、約6ヶ月の入院治療で完全に心身の調子を回復させたシュレーバーは1885年の末には退院している。1885年から1893年の途中までは、シュレーバーは心身の健康を維持して生活しており、この期間の悩みは『子供がなかなかできない事』や『時々神経症(心気症)を発症した頃の夢を見てうなされる事』くらいであった。

1893年、シュレーバーは『精神病に近い重症の神経症(妄想体系が広がるパラノイア)』を発症するが、そのきっかけになったのは二度に及ぶ妻の死産と昇進による法曹の仕事のプレッシャーだったようである。再びフレヒジッヒ博士のクリニックを受診して入院治療を受けたのだが、今度は『自分が脳軟化症やペストに罹っている(病気で身体が腐っていく)』という心気症の妄想が激しくなり、そこに自分は誰かに追われているという追跡妄想が加わって簡単には症状が軽快しなくなっていた。妄想幻覚の症状が激しいために他者とのコミュニケーションが殆ど不可能になり、反応の乏しい混迷状態に陥ったり宗教的・神秘的な恍惚体験に溺れるようになっていった。主治医であるフレヒジッヒ博士に対しても、自分を陥れて迫害する組織のリーダーであるといった『被害妄想』を強めていったのである。

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『シュレーバー症例』のS.フロイトによる解釈と精神荒廃の予後

シュレーバーの妄想型統合失調症にも近い『妄想幻覚・混迷・意思疎通不能』の症状はますます悪化していき、1894年6月にピルナのゾンネンシュタイン精神病院に転院して治療を受けることになった。この時期のシュレーバーはパラノイア(偏執病)のレベルに留まらない強固で奇妙な妄想体系を確立するようになっていたが、自分を『生まれ変わった女性(神と結合すべき女性)』に見立てるシュレーバーの風変わりな妄想体系の内容は、以下のような自己愛に満ちた想像のストーリーによって組み立てられていた。

パラノイアの妄想症状が余りに激しくなって通常の社会生活を送る事が殆ど不可能になったため、シュレーバーは法的・社会的な責任無能力者である禁治産者に認定されたが、『自分には責任能力がまだある』として訴訟を提訴して勝っている。しかし、裁判に勝って責任能力があることを認められたものの、その後のシュレーバーは自発的に何もすることができず自宅に引きこもったままの『無為自閉の生活』に陥ってしまった。3回目の妄想を伴う精神病の発症によって、シュレーバーは完全な精神荒廃の状態になってしまい、最期には自分で排泄の処理さえすることもできなくなって数年後の1911年に病院で死亡した。

ダニエル・パウル・シュレーバーは1903年に『ある神経症患者の回想録』を出版しているが、これを読んだS.フロイトは『自分が女性になって神(フレヒジッヒ博士)と結ばれることで人類を救済するという妄想のストーリー』について、『シュレーバーの同性愛傾向とそれに対する防衛機制の現れ』だと解釈した。この妄想体系は、『迫害されている男性の肉体を持つ自分の破壊=奇跡的な女性化』『人類や世界のために女性の肉体を犠牲にする救世主の自分』という構造によって組み立てられており、女性になって愛されたい(女性になれば本当の力を発揮できる)という想像の根本にあるのは『エディプス・コンプレックス』だと考えた。

シュレーバーはサディスティックで支配的・威圧的だった父親を恐れており、絶えず『去勢不安』を感じるほどのトラウマを持っていたが、父親に対する気持ちは『尊敬・憧れ』『憎悪・悪意』が入り混じったアンビバレンツなものであり、『父親=その代理表象の神・フレヒジッヒ』に愛されるポジションに立つという妄想によって去勢不安を緩和して忘れることができたというのがフロイトの見立てであった。

『シュレーバー症例』が精神分析に果たした貢献は、エディプス・コンプレックスの去勢不安が同性愛傾向(同性愛心理の防衛)に転換されることがあることを明らかにしたことであり、『男性・女性であるという自意識(性自認)の揺らぎ』が時に統合失調症的な妄想幻覚に発展することもあるということだった。現在では、同性愛は『精神の病気や異常』などではなく『生得的・後天的な性の指向性のバリエーション(その人らしさを示す個性の一部分)』に過ぎないと見られるのが普通であるが、キリスト教の倫理規範や同性愛に対する偏見が残っていた20世紀半ばまでは、シュレーバー症例のように『同性愛傾向(自分の生物学的性差の否定)』が何らかの『精神病理の兆候』と見なされることも少なくなかった。

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