『史記 季布・欒布列伝 第四十』の現代語訳:2

中国の前漢時代の歴史家である司馬遷(しばせん,紀元前145年・135年~紀元前87年・86年)が書き残した『史記』から、代表的な人物・国・故事成語のエピソードを選んで書き下し文と現代語訳、解説を書いていきます。『史記』は中国の正史である『二十四史』の一つとされ、計52万6千5百字という膨大な文字数によって書かれている。

『史記』は伝説上の五帝の一人である黄帝から、司馬遷が仕えて宮刑に処された前漢の武帝までの時代を取り扱った紀伝体の歴史書である。史記の構成は『本紀』12巻、『表』10巻、『書』8巻、『世家』30巻、『列伝』70巻となっており、出来事の年代順ではなく皇帝・王・家臣などの各人物やその逸話ごとにまとめた『紀伝体』の体裁を取っている。このページでは、『史記 季布・欒布列伝 第四十』の2について現代語訳を紹介しています。

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参考文献
司馬遷『史記 全8巻』(ちくま学芸文庫),大木康 『現代語訳 史記』(ちくま新書),小川環樹『史記列伝シリーズ』(岩波文庫)

[『史記 季布・欒布列伝 第四十』のエピソードの現代語訳:2]

欒布(らんぷ)は梁の人である。初め、梁王彭越(ほうえつ)がまだ庶民だった頃、布と交流があった。二人は貧窮して斉に出かけて日雇いをすることになり、酒屋に雇われ人として住み込みをした。数年経って彭越はそこを去って巨野(きょや、山東省)に逃げ込み、盗賊になった。布は人にさらわれて売られ燕(えん)で奴僕になったが、その買い主のために仇を討った。このことによって、燕の将軍・蔵荼(ぞうと)が布を都尉に挙用した。

蔵荼は後に燕王となり布を将軍に任命した。蔵荼が謀反を起こすと漢は燕を討って布を捕虜にした。梁王彭越はこれを聞くと、ただちに高祖に請願して布の罪を許させ、梁の大夫とした。布が使者として斉に行き、まだ梁に帰らないうちに、漢は彭越を召し出して謀反のかどで責め、その三族を皆殺しにした。そして、彭越の首を洛陽にさらして、

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「敢えて取り片付ける者がいれば、すぐに逮捕する」と詔(みことのり)を下した。

布は斉から帰ると、使者の要件を彭越の首の下で報告して、首を祀って哭礼(こくれい)を行った。役人が布を捕えてその由を上奏すると高祖は布を召して、罵って言った。

「お前は彭越と共に謀反を企てたのか。わしは彼の首を取り片付けることを禁止していたのに、お前だけが首を祀って哭礼を行った。彭越と共に謀反を企てたのは明らかだ」

そして役人を促してすぐに布を煮殺そうとした。役人が布を引っ張って煮え湯のところに連れていこうとすると、布は振り返って高祖に言った。

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「一言申し上げてから死にたいと存じます」

「何が言いたいのか」

「陛下が彭城で窮地に陥って、ケイ陽・成皐(けいよう・せいこう)の間で敗北された時に、項王(項羽)がそれでも西進して漢を滅ぼすことができなかったのはまさに彭王が梁の地にいて、漢と連合して楚を苦しめていたからです。あの当時、彭王が一顧して楚に味方すれば漢は敗れ、漢に味方すれば楚が敗れる状況でした。さらに垓下の戦いで諸侯が集まったときも、彭王がいなかったら項氏は滅びなかったでしょう。天下が定まりますと、彭王は割り符を割き与えられて封地を受け、これを万世に伝えたいと望んでいました。

しかし、陛下はひとたび梁に出兵を命ぜられ、彭王が病気を理由に出動しないと謀反を起こしたとお疑いになり、謀反の形跡もはっきりしていないのに、苛酷な法を発動して彭王を誅滅なさったのです。このような仕打ちをすると、功臣の一人一人が不安を抱くのではないかと恐れます。今、彭王はすでに死にました。私も生きているよりも死んだほうがましです。どうか、煮殺してください」

それを聞いて高祖は布の罪を釈して(ゆるして)、都尉に任命した。

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孝文帝の時代に燕の宰相となり将軍にもなった。そこで布は常から、「困窮したときに、恥辱に耐えて身を落とし願望を抑制できないようでは、一人前の人間とはいえない。富貴になったときに、ケチで思い通りに振る舞うことができないようでは、賢人とはいえない」

と言ってかつて恩恵を受けた人には厚く報い、怨みを受けた者には必ず法に照らして滅ぼした。呉・楚が反乱を起こしたとき、軍功によって兪侯(ゆこう)に封ぜられた。また再び燕の宰相となった。燕・斉の地方では、各地に欒布のために社(やしろ)を立てて欒公社(らんこうしゃ)と呼ばれた。孝景帝の中元の5年に死んだ。その子の賁(ほん)が後を嗣ぎ、太常(たいじょう)となったが、祭礼の犠牲を法令のとおりに揃えなかったので国から除かれた。

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太史公曰く――

意気盛んな項羽の下にあってさえ、季布は勇をもって楚で有名であり、その身はしばしば敵軍を覆し、敵を破ってはその旗を奪い取った。壮士というべきである。しかし罪を問われる境遇に追い込まれると、人の奴僕に成り下がっても死ななかった。どれほど身を落としたことか。彼は必ずや自分の才能を自負するところがあり、辱めを受けても恥とは思わず、その才能の活用を念じてまだ満足するところにまではいかなかったからであろう。

だから、遂に漢の名将になったのだ。賢者は本当にその死を重んじるものである。あの婢妾(ひしょう)・賎民(せんみん)が悲嘆に暮れて自殺するのは勇気があるからではない。いったん生きるための計画が崩れると、それを立て直すことができないからに過ぎないのである。

欒布が彭越に対して哭礼を行い、煮殺しの刑に処せられる際、帰するがごとくに冷静であったのは、身の処するところを知っていて死そのものに重きを置かなかったからである。昔の烈士であっても、この二人以上の何ができただろうか。

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