『枕草子』の現代語訳:123

清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『社は、布留の社。生田の社。旅の御社。花ふちの社~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

229段

社(やしろ)は、布留(ふる)の社。生田(いくた)の社。旅の御社(みやしろ)。花ふちの社。杉の御社は、しるしあらむと、をかし。ことのままの明神、いとたのもし。「さのみ聞きけむ」とや言はれ給はむと思ふぞ、いとほしき。

蟻通(ありとおし)の明神、貫之(つらゆき)が馬のわづらひけるに、この明神の病ませ給ふとて、歌詠みて奉りけむ、いとをかし。

この蟻通とつけけるは、まことにやありけむ、昔おはしましける帝の、ただ若き人をのみ思しめして、四十になりぬるをば、失はせ給ひければ、人の国の遠きに行き隠れなどして、更に都の内にさる者のなかりけるに、中将なりける人の、いみじう時の人にて、心なども賢かりけるが、七十近き親二人を持たるに、かう四十をだに制することに、まいて恐ろしと、懼ぢ騒ぐに(おじさわぐに)、いみじく孝ある人にて、遠き所に住ませじ、一日に一度(ひとたび)見ではえあるまじとて、密に家の内の土を掘りて、その内に屋を建てて、籠め据ゑて、行きつつ見る。

人にも公(おおやけ)にも、失せ隠れにたるよしを知らせてあり。などか、家に入り居たらむ人をば、知らでもおはせかし。うたてありける世にこそ。この親は、上達部(かんだちめ)などにはあらぬにやありけむ、中将などを子にて持たりけるは。心いとかしこう、よろづの事知りたりければ、この中将も若けれど、いと聞えあり、いたり賢くて、時の人に思すなりけり。

唐土の帝(もろこしのみかど)、この国の帝をいかではかりて、この国討ち取らむとて、常にこころみごとをし、あらがひごとをして、おそり給ひけるに、つやつやと丸(まろ)に、美しげに削りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末(もとすえ)いづ方」と問ひに、奉れたるに、すべて知るべきやうなければ、帝思し煩ひたるに、いとほしくて、親の許に行きて、「かうかうの事なむある」と言へば、「ただ、速からむ川に、立ちながら横ざまに投げ入れて、返りて流れむ方を、末と記して、つかはせ」と教ふ。

参りて、我知り顔に、「さてこころみ侍らむ」とて、人々具して、投げ入れたるに、先にして行く方に印をつけて、遣はしたれば、まことに、さなりけり。

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[現代語訳]

229段

社(やしろ)は、布留(ふる)の社。生田(いくた)の社。旅の御社(みやしろ)。花ふちの社。杉の御社は、霊験(れいげん)があるだろうと思うと、面白い。ことのままの明神、とても頼もしい。「そのように聞いている(最後は嘆きの結果に終わる)」と言われるようになってしまうと思うと、可哀想である。

蟻通(ありとおし)の明神、紀貫之(きのつらゆき)の馬が病気になった時、この明神の祟りだということで、歌を詠んで奉ったそうだが、とても面白い。

この蟻通という名前を付けたのは、嘘か本当か分からないが、昔いらっしゃった帝が、ただ若い人だけをご寵愛になられて、四十歳になった人を殺してしまわれたので、年を取った人は遠い地方の国に行って身を隠したりなどして、都の中にそういった年の者は一人もいなくなったが、中将だった人で、とても帝から寵愛を受けていた方で、賢い頭(心)を持っていたのだが、七十歳に近い両親がいた。このように四十歳でさえ処罰されるというのに、まして老人になれば何をされるかと恐ろしがっていたが、中将はとても孝行な人なので、両親を遠い所には住ませないでおこう、一日に一度は顔を見たいと思って、密かに家の中の土を掘って、その中に小屋を建てて、両親をそこに隠して住ませ、行っては会っていた。

世間にも帝にも、両親はどこかに消えて姿を隠してしまったという風に知らせている。どうして、家の中に引きこもっているような人は、知らないままにしておけば良いのに。嫌な世の中ではある。この親は、上達部などではなかったのかもしれない、中将などを子供に持っているということは。両親は頭がとても賢くて、何でも物事をよく知っていた。この中将も若いけれど、賢明な人物であるととても評判が良く、そのため、とても帝から寵愛されていた。

中国の帝が、この日本国の帝をどうにかして騙して、この国を征服しようと考えて、いつもその知恵を試して論争を仕掛け、襲ってきていたのだが、つるつると丸く、綺麗に削った木の二尺ほどの長さのものを出して、「これの根元と先はどちらか」と問いただして献上したが、まったく分からないので、帝は思い迷っておられたが、中将はお気の毒に思って、親の所に行って、「これこれの事があったのですが」と言うと、「ただ流れの速い川に、立ちながら木を水平にして投げ入れて、くるりと返って先に流れていくほうを、末だと書いて送り返せば良い」と中将に教えた。

中将は参上して、さも自分が知っていたという顔をして、「さぁ、その方法を試してみましょう。」と行って、人々を連れて、木を投げ入れてみると、先になった方に末だという印をつけて、返したのだが、本当に、その通りであった。

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[古文・原文]

229段(終わり)

また、二尺ばかりなる蛇(くちなわ)の、ただ同じ長さなるを、「これは、いづれか男、女」とて、奉れり。また、更に人え見知らず。例の、中将行きて問へば、「二つを並べて、尾の方に細きすはえをしてさし寄せむに、尾はたらかさむを、女と知れ」と言ひける、やがてそれは内裏の内にて、さしけるに、まことに一つは動かず、一つは動かしければ、また、さるしるしつけて遣はしけり。

ほど久しくて、七曲(ななわだ)にわだかまりたる玉の、中通りて、左右に口あきたるが小さきを奉りて、「これに緒(お)通して賜はらむ。この国に皆しはべることなり」とて、奉りたるに、「いみじからむものの上手、不用なり」と、そこらの上達部、殿上人、世にありとある人言ふに、また行きて、「かくなむ」と言へば、「大きなる蟻を捕へて、二つばかりが腰に細き糸を付けて、またそれに、今少し太きを付けて、穴の口に蜜を塗りてみよ」と言ひければ、さ申して、蟻を入れたるに、蜜の香を嗅ぎて、まことにいと疾く(とく)、あなたの口より出でにけり。さて、その糸の貫かれたるを遣はしてける後になむ、「なほ、日の本の国はかしこかりけり」とて、後にさる事もせざりける。

この中将を、いみじき人に思しめして、(帝)「何わざをし、いかなる官位(つかさくらい)をか賜ふべき」と、仰せられければ、「さらに官(つかさ)も爵(かうぶり)も賜はらじ。ただ、老いたる父母の隠れ失せて侍る、尋ねて、都に住ますることを許させ給へ」と申しければ、「いみじうやすき事」とて、許されければ、よろづの人の親、これを聞きてよろこぶ事、いみじかりけり。中将は、上達部、大臣になさせ給ひてなむありける。

さて、その人の、神になりたるにやあらむ、その神の御許(おんもと)に詣でたりける人に、夜現れて、のたまへりける。

七曲(ななわだ)に まがれる玉の 緒をぬきて ありとほしとは 知らずやあるらむ

と、のたまへりけると、人の語りし。

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[現代語訳]

229段(終わり)

また、二尺ほどの長さの蛇の、全く同じ長さであるものを、「これは、どちらが男か女か」と難題を言って献上してきた。またまったく、誰も見分けることができない。そこで中将が例のように両親の元へ行って聞くと、「二匹を並べて、尾の方に細い小枝をさし寄せた時、尾を動かしたほうが女(雌)だということを知っておきなさい。」と言った。これは内裏の中で、そのままやってみると、本当に一匹は動かず、もう一匹は尾を動かしたので、また、そういう印をつけて送り返した。

長い時間が経ってから、七曲がりにくねくね曲がった玉で、中に穴が通っていて、左右に口が開いた小さいものを献上して、「これに糸を通してお返し頂きたい。我が国ではみんながそうしていることです。」といって差し出してきたので、「どんなに上手な職人であっても、この曲がった玉に糸を通すのは無理だ。」と、その辺の上達部、殿上人など、世の中のありとあらゆる人は言うけれど、また中将が親の 所に行って、「このようなことがありました。」と言うと、「大きな蟻を捕まえて、二匹ほどの腰に細い糸をつけて、その糸の先にもう少し太い糸をつけて、穴の口に蜜を塗ってみなさい。」と言ったので、帝にそう申し上げて、蟻を入れてみた所、蜜の香りを嗅いで、本当に凄い速さで、もう一方の口から出てきた。そうして、その糸の貫かれた玉を送り返してから後は、「やはり、日の本の国は賢い国であった。」ということで、その後はそのような事を唐(中国)の帝はしなくなった。

帝はこの中将を、とても重要な人材だとお思いになられて、「どのような恩賞をして、どんな官位を授ければ良いのか。」とおっしゃられたが、「これ以上の官も爵位も頂きたくはございません。ただ、老いた父母が身を隠しておりますので、そこを訪ねて、都に住むことをお許し下さいませ。」と申し上げると、「非常に簡単なことである。」と帝は言って、お許しになられたので、世間の人の親は、これを聞いて喜ぶこと、甚だしかった。中将は、上達部から大臣にまでおなりになられたのであった。

さて、その親であった人が、神様になられたのであろうか、その神様の元にお参りした人の夢に夜現れて、おっしゃった。

七曲(ななわだ)に まがれる玉の 緒をぬきて ありとほしとは 知らずやあるらむ

(七曲がりに曲がった玉に、緒を貫いて蟻を通した、その蟻通し明神という神を、世間の人は知らずにいるのだろうか。)

とおっしゃったのだと、ある人が話してくれた。

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