『枕草子』の現代語訳:58

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

このウェブページでは、『枕草子』の『さて、まゐりたれば、有様など問はせたまふ。恨みつる人々~』の部分の原文・現代語訳を紹介します。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

95段(続き)

さて、まゐりたれば、有様など問はせたまふ。恨みつる人々、怨じ(えんじ)心憂がりながら(うがりながら)、藤侍従(とうじじゅう)の一条の大路走りつる、語るにぞ、皆笑ひぬる。「さて、いづら、歌は」と問はせたまへば、かうかうと啓すれば、「くちをしのことや。上人(うえびと)などの聞かむに、いかでか、つゆをかしきことなくてはあらむ。その聞きつらむ所にて、きとこそは詠まましか。あまり儀式定めつらむこそ、あやしけれ。ここにても詠め。いと言ふかひなし」など、のたまはすれば、げにと思ふに、いとわびしきを、言ひあはせなどするほどに、藤侍従、ありつる花に付けて、卯の花の薄様(うすよう)に書きたり。

この歌おぼえず。これが返し、まずせむなど、硯取りに局に遣れば(やれば)、「ただこれして疾く言へ(とくいえ)」とて、御硯の蓋に紙などして賜はせたる。「宰相の君、書きたまへ」と言ふを、「なほ、そこに」など言ふほどに、かきくらし雨降りて、雷(かみ)いと恐ろしう鳴りたれば、物も覚えず、ただ恐ろしきに、御格子(みこうし)まゐり渡し惑ひしほどに、このことも忘れぬ。

いと久しう鳴りて、少しやむほどには暗うなりぬ。ただ今、なほこの返事たてまつらむとて、取り向ふに、人々、上達部(かんだちめ)など、雷の事申しにまゐり給へれば、西面(にしおもて)に出で居てもの聞えなどするに、まぎれぬ。異人(ことひと)はた、さして得たらむ人こそせめ、とてやみぬ。なほこのことに宿世(すくせ)なき日なめりと、くんじて、「今は、いかで、さなむ行きたりしとだに、人に多く聞かせじ」など笑ふ。「今も、などか、その行きたりし限りの人どもにて言はざらむ。されど、させじと思ふにこそ」と、物しげなる御けしきなるも、いとをかし。「されど、今は、すさまじうなりにて侍るなり」と申す。「すさまじかべき事かは」など、のたまはせしかど、さてやみにき。

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[現代語訳]

95段(続き)

さて、中宮の所に参上すると、今日のご様子をお聞きになる。連れていって貰えずに恨んでいる女房たち、恨みごとを言ったり情けない気持ちになりながら、藤侍従が一条の大路を走ったという話を語ると、みんなが笑った。「さて、歌はどんな歌を詠んだのですか」と中宮がお聞きになるので、こうこうで読めなかったと申し上げると、「情けないことですね。殿上人がこのことを聞けば、歌が読めなかったということで済まされるでしょうか、全く面白い歌がないということになってしまう。その郭公の鳴き声を聞いた所で、どうしてさっさと詠まなかったのですか。あまり畏まり過ぎるというのも良くないのです。ここででもいいから詠みなさい。本当に不甲斐ない」などとおっしゃるので、最もだと思うと、非情に情けない状態をどうしようかと、歌の相談をしている時に、藤侍従が先ほどの卯の花に付けて、卯の花の薄様の紙に歌を書いて送ってきた。

この歌は覚えていない。この歌への返歌をまずしようと話して、硯を取りに局に人をやると、「早くこれで返歌をしなさい」とおっしゃって、硯箱の蓋に紙などを入れて下賜された。「宰相の君、あなたがお書きなさい」と言うと、「いえ、そこにいるあなたがまず」などとやり取りしているうちに、空がかき曇って雨が降りだし、雷が恐ろしげに激しく鳴ったので、何も覚えていない、ただ恐ろしいという思いだけで、御格子を下ろして大慌てしてしまったので、返歌のことも忘れてしまった。

とても長い間、雷が鳴って、少し雷が弱くなる頃には暗くなってしまった。今から、この返歌を差し上げようと思って、取り掛かったのだが、上達部などの高位の人たちが、雷のお見舞いを申し上げにやってくるので、西向きの部屋に出て応対しているうちに、紛れてしまった。他の女房たちは、自分に送られてきた歌にはやはりご自分で返歌をすべきだということで、話が終わってしまった。清少納言はやはり今日は歌に前世からの縁が無い日なのだろうと落ち込んで、「今はもう、どうにかしてそこまで郭公の声を聞きに行ったということを、人々にむやみに聞かせないようにしよう」と言って笑った。「今でもそこに行った人たちだけの間で話せば、歌を詠めるはずなのに。だけど、詠みたくないと思っているのでしょう」と、ご不満そうな中宮様のご様子もたいそう面白い。「しかし、今はもう興ざめになってしまったのです」と申し上げる。「面白くないということはないでしょうに」などと中宮様はおっしゃったが、そのまま歌を詠まずに終わってしまった。

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[古文・原文]

95段(終わり)

二日ばかりありて、その日の事など言ひ出づるに、宰相の君、「いかにぞ、手づから折りたりと言ひし下蕨(したわらび)は」と、のたまふを、聞かせ給ひて、「思ひ出づることのさまよ」と笑はせ給ひて、紙の散りたるに、

下蕨こそ恋しかりけれ

と書かせ給ひて、「本言へ」と仰せらるるも、いとをかし。

郭公(ほととぎす)たづねて聞きし声よりも

と書きて参らせたれば、「いみじうけばりたりや。かうだに、いかで郭公の事をかけつらむ」とて、笑はせ給ふも恥づかしながら、「何か、この歌、すべて詠みはべらじ、となむ思ひはべるを、物のをりなど、人の読みはべらむにも、『詠め』など仰せらるれば、えさぶらふまじき心地なむしはべる。いといかがは、文字の数知らず、春は冬の歌、秋は梅の花の歌などを詠むやうははべらむ。されど、歌詠むといはれし末々(すゑずゑ)は、少し人よりまさりて、『そのをりの歌は、これこそありけれ、さは言へど、それが子なれば』など言はればこそ、甲斐ある心地もし侍らめ。露とり分きたる方もなくて、さすがに歌がましう、我はと思へるさまに、最初に詠みいではべらむ、亡き人のためも、いとほしう侍る」と、まめやかに啓すれば、笑はせ給ひて、「さらば、ただ心にまかす。我は、詠めとも言はじ」とのたまはすれば、「いと心やすくなり侍りぬ。今は、歌のこと思ひかけじ」など言ひてあるころ、庚申(こうしん)せさせ給ふとて、内大臣殿、いみじう心まうけせさせ給へり。

夜うち更くるほどに、題出だして、女房に歌詠ませ給ふ。皆けしきばみ、ゆるがし出だすに、宮の御前近くさぶらひて、物啓しなど、異事(ことこと)をのみ言ふを、大臣、御覧じて、(伊周)「など、歌は詠まで、むげに離れゐたる、題取れ」とて、賜ふを、「さる事承りて、歌詠みはべりまじうなりて侍れば、思ひかけ侍らず」と申す。「異様(ことよう)なること。まことに、さる事やは侍る。などか、さは許させ給ふ。いとあるまじき事なり。よし、異時(こととき)は知らず、今宵は詠め」など、責めさせ給へど、けぎよう聞きも入れで侍ふに、皆人々、詠み出だして、よしあしなど定めらるるほどに、いささかなる御文を書きて投げ賜はせたり。見れば、

元輔(もとすけ)が後と言はるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる

とあるを見るに、をかしき事ぞ、類(たぐい)なきや。いみじう笑へば、「何事ぞ、何事ぞ」と大臣も問いたまふ。

「その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞ詠ままし。

つつむ事さぶらはずは、千の歌なりと、これよりなむ出でまうで来(こ)まし」と啓しつ。

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[現代語訳]

95段(終わり)

二日ほど経って、その日のことを思い出して話すと、宰相の君が、「どうでしたか、自分の手で折ったという下蕨の味は」とおっしゃるのを、中宮様がお聞きになられて、「思い出すことが下蕨の味とは」とお笑いになって、散っていた紙に、

下蕨こそ恋しかりけれ

とお書きになって、「上の句をつけなさい」とおっしゃったのもとても面白い。

郭公(ほととぎす)たづねて聞きし声よりも

と書いて持っていった所、「とても堂々とした句ですね。このように、どうして郭公の事ばかりを書くのでしょうか」とお笑いになっているので恥ずかしく感じたが、「なぜなのか、この歌というものをもう詠まないようにしようとも思っているのですが、何かの折などに人が歌を詠む時に、『お前も詠め』などとおっしゃられるのであれば、私はご奉公がもう出来ないような気持ちがします。歌の文字数も知らず、春に冬の歌を詠み、秋に春の梅の花の歌などを詠むようなことを、どうしてしようと思うでしょうか。しかし、歌詠みの名手と言われた人たちの子孫は、少しは歌の道で人より優れていて、『あの時の歌は、このようなものだった、さすがはやはり、あの人の子孫である』などと言われれば、歌を詠む甲斐のある気持ちになるでしょう。全く優れた所もない人なのに、こういった凄い歌が詠めるぞといった自尊心を持っている感じで、最初に歌を詠み始めるような人は、亡きご先祖のためにも、情けないことでございます」と、真面目に申し上げると、中宮様はお笑いになられて、「それならば、お前に任せましょう。私はもうお前に詠めとは言わないでおこう」とおっしゃられるので、「とても安心した気持ちになれました。今は、歌のことは考えたくありません」などと言っていると、中宮が庚申の催事をなされるということで、内大臣殿がとても集中して準備をされている。

夜が更けた頃に、題を出して、女房に歌をお詠ませになる。みんな興奮して苦労して、歌を考えだしているのに、私は中宮の御前の近くに控えていて、お話したり、歌とは違うことばかりを言っているのを、内大臣の伊周が御覧になって、「どうして、歌を詠まないで、意味なく離れた所に座っているのか、題を取って詠みなさい」とおっしゃって題を与えようとするが、「このような経緯がございまして、歌を詠まなくてもよいということになりましたので、歌を詠んではいないのです」と申し上げる。「異様なことですな。本当にそのようなことがございましたか。どうして、そのような事を中宮様はお許しになったのか。あってはならない事である。しかし、他の時なら知らず、今宵だけは詠まなくてはいけない」などと私を責めてきたけれど、全く聞き入れもせずに中宮様の所に座っていると、みんなが歌を詠みだして、その上手・下手を評定しているうちに、ちょっとしたお手紙を中宮様がお書きになって、私に投げて寄越された。それを見ると、

元輔(もとすけ)が後と言はるる君しもや今宵の歌にはづれてはをる(歌の名人・清原元輔の娘と言われるあなただから、わざと遠慮して今宵の歌から外れているのでしょう)

とあって、今までに類のないほどの面白さである。私が大笑いをすると、「何事か、何事か」と大臣もお聞きになる。

「その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞ詠ままし。

歌の名人である父(清原元輔)の名声の前で遠慮することがないのでしたら、千首の歌でも、これからお詠み差し上げたのですが」と申し上げた。

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