『枕草子』の現代語訳:37

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

64段

草の花は撫子(なでしこ)、唐(から)のはさらなり、大和のも、いとめでたし。女郎花(おみなえし)。桔梗(ききょう)。朝顔。刈萱(かるかや)。菊。壺すみれ。

竜胆(りんどう)は、枝ざしなどもむつかしけれど、異花(ことはな)どもの皆霜枯れたるに、いと花やかなる色あひにてさし出でたる、いとをかし。

またわざと、取り立てて、人めかすべくもあらぬさまなれど、かまつか(雁来花)の花、らうたげなり。名ぞうたてあなる。雁の来る花とぞ、文字には書きたる。かにひ(雁緋)の花、色は濃からねど、藤の花にいとよく似て、春秋と咲くがをかしきなり。

萩、いと色深う、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れてなよなよとひろごり伏したる。さ牡鹿のわきて立ちならすらむも、心異なり。八重山吹(やえやまぶき)。

夕顔は花のかたちも朝顔に似て、言ひ続けたるにいとをかしかりぬべき花の姿に、実の有様こそ、いとくちをしけれ。などて、さはた生ひ出でけむ。ぬかづきといふ物のやうにだにあれかし。されどなほ夕顔といふ名ばかりは、をかし。しもつけの花。蘆(あし)の花。

これに薄(すすき)を入れぬ、いみじうあやしと、人言ふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄こそあれ。穂先の蘇枋(すおう)にいと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞ、いと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花の、かたもなく散りたるに、冬の末まで頭の白くおほどれたるも知らず、昔思ひいで顔に風になびきてかひろぎ立てる、人にこそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしもこそ、あはれと思ふべけれ。

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[現代語訳]

64段

草の花は撫子(なでしこ)、唐のものは言うまでもないが、大和(日本)のものもとても立派である。女郎花(おみなえし)。桔梗(ききょう)。朝顔。刈萱(かるかや)。菊。壺すみれなども良い。

竜胆(りんどう)は枝の張り具合などがむさくるしいが、他の花々がみんな霜にやられて枯れてしまった中で、非常に派手な色彩で顔を覗かせている様子は、非常に趣きがある。

また、敢えて取り上げて持ち上げてあげるほどの花ではないが、かまつか(雁来花)の花は可愛らしい。名前がちょっと嫌な感じだが。雁の来る花と文字では書いている。かにひ(雁緋)の花は、色は濃くないけれど、藤の花にとてもよく似ていて、春と秋に花を咲かせるのが素敵である。

萩、とても色合いが深くて、枝もしなやかな感じで咲いている花が、朝露に濡れてなよなよして広がって伏せている。歌で牡鹿が好んで立ち寄るとされていることも、他の物に対する心ばえとは違っている。八重山吹も良い。

夕顔は花の恰好が朝顔にとてもよく似ていて、朝顔・夕顔と並べて続けて言ってもおかしくない花の姿をしているのに、実の様子がとても情けないのである。どうしてあのような無様な実がなるようになったのだろうか。せめて、ぬかづきという物の実くらいであって欲しいと思うのだが。しかし、やはり夕顔という名前だけは風情がある。しもつけの花。蘆の花も良い。

この中に薄(すすき)を入れないのは、とても怪しい(とても納得できない)という人もいるだろう。秋の野原の情趣が漂う風情というのは、薄あってのものなのである。穂先が赤くなった薄が、朝露に濡れて風になびいている姿は、これほどに素晴らしいものが他にあるだろうか。しかし秋の終わりになると、本当に見所のないものになる。色々な色彩で咲き乱れている秋草の花が、跡形もなく散ってしまった後、冬の終わり頃に頭がもう真っ白に覆われてしまったのも知らずに、昔を思い出しながら風に顔を吹かれてゆらゆらと立っている、これは人間の人生にとても良く似ている。それに寄り添うような心があって、それを哀れと思っているのである。

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[古文・原文]

65段

集(しゅう)は、古万葉。古今。

66段

歌の題は、都。葛(くず)。三稜草(みくり)。駒。霰(あられ)。

67段

おぼつかなきもの

十二年の山籠りの法師の女親(めおや)。知らぬ所に、闇なるに行きたるに、あらはにもぞあるとて、火もともさで、さすがに並みゐたる。今出で来たる者の、心も知らぬに、やむごとなき物持たせて人の許にやりたるに、遅く帰る。物もまだ言はぬ児(ちご)の、そりくつがへり人にも抱かれず泣きたる。

[現代語訳]

65段

歌集は、古万葉集と古今和歌集が良い。

66段

歌の題は、都や葛、三稜草(みくり)、駒、霰が良い。

67段

安心できないもの(不安なもの)

比叡山に12年も籠って修行をしている法師の母親(女親)。知らない家に、月が出ていない闇夜に行ったのだが、姿があらわになり過ぎるといけないと思って、燈火もつけずにそれでもずらりと並んで座っている。今やってきたばかりの従者で、その気持ちも良く知らないので、大切な物を持たせて人のところに使いにやったところ、帰りが遅くなった時。物もまだ話せない小さな子供(赤ん坊)が、そっくり返って人に抱かれようとせず、泣いていること。

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