『枕草子』の現代語訳:5

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清少納言(康保3年頃(966年頃)~万寿2年頃(1025年頃))が平安時代中期に書いた『枕草子(まくらのそうし)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載していきます。『枕草子』は中宮定子に仕えていた女房・清少納言が書いたとされる日本最古の女流随筆文学(エッセイ文学)で、清少納言の自然や生活、人間関係、文化様式に対する繊細で鋭い観察眼・発想力が反映された作品になっています。

『枕草子』は池田亀鑑(いけだきかん)の書いた『全講枕草子(1957年)』の解説書では、多種多様な物事の定義について記した“ものづくし”の『類聚章段(るいじゅうしょうだん)』、四季の自然や日常生活の事柄を観察して感想を記した『随想章段』、中宮定子と関係する宮廷社会の出来事を思い出して書いた『回想章段(日記章段)』の3つの部分に大きく分けられています。紫式部が『源氏物語』で書いた情緒的な深みのある『もののあはれ』の世界観に対し、清少納言は『枕草子』の中で明るい知性を活かして、『をかし』の美しい世界観を表現したと言われます。

参考文献
石田穣二『枕草子 上・下巻』(角川ソフィア文庫),『枕草子』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),上坂信男,神作光一など『枕草子 上・中・下巻』(講談社学術文庫)

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[古文・原文]

同じ局に住む若き人々などして、よろづの事も知らず、ねぶたければ皆寝ぬ(いぬ)。東の対(たい)の西の廂(ひさし)、北かけてあるに、北の障子に懸金(かけがね)もなかりけるを、それも尋ねず、家主なれば、案内を知りてあけてけり。あやしく涸(か)ればみさわぎたる声にて、(生昌)『候はむ(さぶらわん)はいかに、候はむはいかに』と、数多(あまた)たびいふ声にぞ、驚きて見れば、几帳(きちょう)の後に立てたる燈台の光はあらはなり。障子を五寸ばかりあけて言ふなりけり。いみじうをかし。更にかやうの好き好きしきわざ、ゆめにせぬものを、わが家におはしましたりとて、無下(むげ)に心にまかするなめりと思ふも、いとをかし。

傍ら(かたわら)なる人をおし起こして、(清少納言)『かれ見給へ。かかる見えぬもののあめるは』と言へば、頭もたげて見やりて、いみじう笑ふ。(清少納言)『あれは誰そ。けそうに』と言へば、(生昌)『あらず、家主(いえあるじ)と局主(つぼねあるじ)と定め申すべき事の侍るなり』と言へば、『門の事をこそ聞えつれ、障子開け給へ、とやは聞えつる』と言へば、『なほその事も申さむ。そこに侍はむはいかに。そこに侍はむはいかに』と言へば、(女房)『いと見苦しきこと。更にえおはせじ』とて笑ふめれば、『若き人おはしけり』とて、引き立てて去ぬる(いぬる)後に、笑ふこといみじう。あけむとならば、ただ入りねかし、消息を言はむに、よかなりとは誰か言はむと、げにぞをかしき。

[現代語訳]

同じ局に住んでいる若い女房たちと一緒に、何も状況が分からなくなり、眠たくて堪らなくなったのでみんな眠り込んでしまった。私たちの局は、東の対の屋の西の廂の間であり、北側の部屋に続いていたが、その間にある襖には鍵もなかった。そういった状況を気にしてなかったのだが、家主の生昌は勝手を知っていて、私たちの眠り込んでいる局につながる襖を開けてしまったのだった。妙にしわがれた騒がしい声で、『そちらに伺ってもよろしいでしょうか。そちらに伺ってもよろしいでしょうか』と何度も声を掛けてくる、ふと目を覚まして見ると、几帳の後ろに立てた燈台の光が、向こう側を明るく照らしている。障子を15cm(五寸)ほどだけ開けて、生昌は声を掛けているのだ。これは非常に面白い。こんな好色めいた行為など、生昌は全くしない人物なのだが、中宮様が自分の家にやってこられたというので、気が大きくなって失礼なことまでしてしまうのだろうと思うのだが、これは非常におかしくて滑稽な様子だ。

近くで寝ていた女房たちを揺すって起こして、『あちらをご覧なさい。あんな見慣れない人がこちらを覗いているようですよ』と言うと、女房は頭をもたげてそちらを見て、大声で笑う。『あれは誰なの。懸想しているのかしら』と言うと、『いえ、違います。この家の主人としてここの局の主人であるあなたとご相談したいことがあったのです』と生昌は答えた。『先ほど門のことについて申し上げましたが、襖をお開けになって下さいなんて言いましたか』と清少納言が言うと、『いえ、実はそのことについても申し上げたいことがあります。そちらに伺ってもよろしいでしょうか、そちらに伺ってもよろしいでしょうか』と言う。近くにいる女房が、『こんなに見苦しい恰好をしているのに。入ってきたらダメですよ』と言って笑うと、『若い女性がいらっしゃったのですね』と言って、襖を閉めて生昌は立ち去った、その後に女房たちは大笑いした。襖をせっかく開けたのだから、そのまま部屋に入ってくればいいのに、わざわざ入ってもいいですかなどとお伺いを立てれば、女の側がさあさあどうぞなどと言えるわけもないじゃない、本当に野暮な振る舞いがおかしい。

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[古文・原文]

つとめて、御前に参りて啓すれば、『さる事も聞えざりつるものを。昨夜(よべ)のことに愛でて行きたりけるなり。あはれ、彼をはしたなう言ひけむこそ、いとほしけれ』とて、笑はせ給ふ。

姫宮の御方の童女(わらわべ)の装束つかうまつるべきよし、仰せらるるに、(生昌)『この袙(あこめ)の上襲(うわおそい)は、何色にか、つかうまつらすべき』と申すを、また笑ふもことわりなり。

(生昌)『姫宮の御前の物は、例のやうにては、悪気(にくげ)に候はむ。ちうせい折敷(おしき)に、ちうせい高杯(たかつき)などこそ、よくはべらめ』と申すを、(清少納言)『さてこそは、上襲(うわおそい)着たらむ童女も、参りよからめ』と言ふを、(宮)『なほ、例の人のやうに、これかくな言ひ笑ひそ。いと謹厚なるものを』と、いとほしがらせたまふも、をかし。

[現代語訳]

翌朝、中宮の御前に参上して、生昌の深夜の来訪についてお伝えしたが、『そのような好色なお噂を全く聞かない方なのに。昨夜のあなたとのやり取りに感心して局まで押しかけたのでしょう。可哀想に、彼を強い口調でやり込めたのでしょうね』とおっしゃってお笑いになられた。

姫宮の側に仕えている女の子の着物を新調するようにと中宮からのお言いつけがあったのだが、生昌は『お言いつけのあったこの袙(あこめ)の上っ張りはどのような色にしたらよろしいでしょうか』と言って、更に女房たちから(女性の装束にまつわる感性・言語感覚の乏しさ)を笑われることになった。

『姫宮の御膳の食器は、大人と同じいつものものでは使いにくいでしょう。ちゅうせい折敷とちゅうせい高杯のほうが使いやすいと思います』と申し上げたが、清少納言が『そういう御膳で召し上がる姫君であれば、上っ張りを着た童女もお仕えしやすいでしょうね』と皮肉を言うと、中宮が『これ普通の人のように、生昌を笑いものにするのは良くないことですよ。彼はとても生真面目なお方なのですから』と言って気の毒に思っておられる。そのご様子も、見ていて面白いものである。

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