『平家物語』の原文・現代語訳30:さる程に、山門には~

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13世紀半ばに成立したと推測されている『平家物語』の原文と意訳を掲載していきます。『平家物語』という書名が成立したのは後年であり、当初は源平合戦の戦いや人物を描いた『保元物語』『平治物語』などと並んで、『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたのではないかと考えられているが、『平家物語』の作者も成立年代もはっきりしていない。仁治元年(1240年)に藤原定家が書写した『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に『治承物語六巻号平家候間、書写候也』と書かれており、ここにある『治承物語』が『平家物語』であるとする説もあり、その作者についても複数の説が出されている。

兼好法師(吉田兼好)の『徒然草(226段)』では、信濃前司行長(しなののぜんじ・ゆきなが)という人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧にその物語を伝えたという記述が為されている。信濃前司行長という人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫の下野守藤原行長ではないかとも推定されているが、『平家物語』は基本的に盲目の琵琶法師が節をつけて語る『平曲(語り本)』によって伝承されてきた源平合戦の戦記物語である。このウェブページでは、『さる程に、山門には~』の部分の原文・現代語訳(意訳)を記しています。

参考文献
『平家物語』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),佐藤謙三『平家物語 上下巻』(角川ソフィア文庫),梶原正昭・山下宏明 『平家物語』(岩波文庫)

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[古文・原文]

御輿振の事

さる程に、山門には、国司加賀守師高を流罪に処せられ、目代近藤判官師経を禁獄せらるべき由、奏聞(そうもん)度々に及ぶといへども、御裁許なかりければ、日吉(ひえ)の祭礼をうち止めて、安元三年四月十三日の辰の一点に、十禅師権現・客人(まらうど)・八王子、三社の神輿(しんよ)を飾り奉つて、陣頭へ振り挙げ奉る。さがり松・きれ堤・賀茂の川原・糺(ただす)・梅ただ・柳原・東北院の辺に、神人(じにん)・宮仕(みやじ)・白大衆(しろだいしゅ)・専当満ち満ちて、いくらといふ数を知らず。神輿は一条を西へ入らせ給ふに、御神宝(ごじんぽう)天に輝いて、日月地に落ち給ふかと驚かる。

これによつて源平両家の大将軍に仰せて、四方の陣頭を堅めて、大衆防ぐべき由仰せ下さる。平家には、小松の内大臣の左大将重盛公、その勢三千余騎にて、大宮表(おおみやおもて)の陽明(ようめい)・待賢(たいけん)・郁芳(ゆうほう)、三つの門を堅め給ふ。弟宗盛・知盛・重衡・伯父頼盛・教盛・経盛などは、西・南の門を堅め給ふ。源氏には、大内(だいだい)守護の源三位頼政(よりまさ)、郎等(ろうどう)には渡邊省(わたなべのはぶく)・授(さずく)を先として、その勢僅に三百余騎、北の門縫殿(ぬいどの)の陣を堅め給ふ。所は広し、勢は少なし。まばらにこそ見えたりけれ。

大衆無勢(ぶぜい)たるによつて、北の門縫殿の陣より神輿を入れ奉らんとするに、頼政の卿さる人にて、急ぎ馬より飛んでおり、甲(かぶと)をぬぎ、手水嗽(ちょうず・うがい)して、神輿を拝し奉らる。兵どももみなかくの如し。頼政の卿より大衆の中へ、使者を立てていひ送らるる旨あり。その使は渡邊長七唱(わたなべのちょうしち・となう)とぞ聞えし。唱その日の装束には、きぢんの直垂(ひたたれ)に、小櫻を黄にかへしたる鎧着て、赤銅作りの太刀を佩き(はき)、二十四さいたる白羽の矢負ひ、滋籐(しげどう)の弓脇に挟み、甲をば脱いで高紐にかけ、神輿の御前に畏まって、

『しばらく静まられ候へ。源三位殿より、衆徒の御中(おんなか)へ申せと候』とて、『今度山門の御訴訟、理運の条勿論に候。御裁断遅々こそは、余所(よそ)にても遺恨に覚え候へ。神輿入れ奉らん事子細に及び候はず。但し、頼政無勢に候。開けて入れ奉る陣より入らせ給ひなば、山門の大衆は目垂顔(めだりがお)しけりなど、京童(きょうわらべ)の申さん事、後日の難にや候はんずらん。あけて入れ奉れば、宣旨(せんじ)を背くに似たり。又防ぎ奉らんとすれば、年来(としごろ)医王・山王に首(こうべ)を傾けて候ふ身が、今日より後、長く弓矢の道に別れ候ひなんず。彼と云ひこれと云ひ、かたがた難治のやうに覚え候。東の陣頭をば、小松殿の大勢にて固められて候。その陣より入らせ給ふべうもや候ふらん』と、云ひ送りたりければ、唱(となう)がかく云ふに防がれて、神人・宮仕暫くゆらへたり。

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[現代語訳・意訳]

さて、山門(比叡山延暦寺)は国司・加賀守師高を流罪にし、また目代・近藤判官師経を禁獄にするように、内裏に何度も要求をしてきたが、この要請に対する動きが無いので、日吉神社の祭礼を中止して、安元三年四月十三日辰の一点(午前七時半頃)に十禅師権現、客人、八王子これら三社の神輿を飾り立てて、比叡山から洛中へと向かった。下がり松、きれ堤、賀茂の河原、糺、一条京極の梅忠、上京区の柳原、東北院の辺りに、神人、宮仕、官位のない僧侶その他の法師たちが溢れかえって、どれだけの数がいるのかも分からない。神輿は一条通りを西へ向って、日光を浴びて日月が地に落ちてきたかと思うほどに光り輝いている。

このため、源平両家の大将に対し、四方の陣を固めて山門の大衆が洛内に入ってくるのを防ぐように朝廷からの命令が下された。平家は小松内大臣左大将重盛公が三千余騎の兵で、大宮通りの陽明門、待賢門、郁芳門の三つの門を固めた。弟の宗盛、知盛、重衡、叔父頼盛、教盛、経盛たちは、西・南の門を固めた。源氏のほうは、内裏守護職の源三位頼政とその郎等渡辺省、授を先鋒にしたが、その勢力はわずか三百余騎に過ぎず、北の門、縫殿の陣を固めた。守る場所は広いが、勢力は少ない。源氏の軍勢はまばらに見えた。

山門の衆徒も、軍勢が手薄と見て源氏が守る内裏の北側に回ってきた、縫殿の陣から神輿を宮中に入れようとする。だが、頼政卿はなかなかしたたかな人物で、急いで馬から降りると、兜を脱ぎ、手水を使って手を清め、口はうがいをして、神輿に敬意を示した。頼政が指揮する軍勢も同じようにした。頼政は山門の衆徒の中へと使者を立てて、ある事を伝えた。その使者に選ばれたのは、渡辺党の長七唱という者だった。唱の装束は麹塵の直垂に、藍地に桜を黄色に染め抜いた鎧を着ており、赤銅作りの太刀を身につけて、白羽の矢を二十四本背中に差し、重藤の弓を脇に挟んでいた。兜を脱いで、顎紐で結んで背負い、神輿の前に進んで畏まった、

『しばらくお静かにして下さるようにお願いします。源三位殿より衆徒の皆様に、お伝えすべき言葉を聞いてきています。この度の山門の御訴訟は、道理にかなっていることは勿論だと思っています。内裏の御裁断が遅れているので、他の人から見ても恨めしく感じます。ですから、神輿を内裏に入れることにも反対は致しません。しかし、頼政は無勢なのです。このような開け放たれた陣から、内裏にお入りなると、山門の大衆はこちらの弱みに付け込んだと京童の噂になり、後で不名誉なことになりませんか。またこちらが門を開けて中に導くとなると、院の宣旨に背くことと同じです。反対に山門に逆らって守ろうとすれば、我々が今まで信仰してきた薬師如来や日吉権現に背くことになり、武士としての道を歩み続けることが出来なくなります。いずれにしても、本当に困ったことです。しかし、東の陣であれば平家の小松殿が大勢で固めておられます。そこから神輿を持ってお入りになるというのはいかがでしょうか。』と、山門の大衆に伝えた。渡辺唱の話を聞いて、神官も宮司も暫くどうすべきか考え込んでいる。

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