『徒然草』の80段~82段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の80段~82段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第80段:人ごとに、我が身にうとき事をのみぞ好める。法師は、兵(つわもの)の道を立て、夷(えびす)は、弓ひく術知らず、仏法知りたる気色し、連歌し、管絃を嗜み(たしなみ)合へり。されど、おろかなる己れが道よりは、なほ、人に思ひ侮られぬべし。

法師のみにもあらず、上達部・殿上人・上ざままで、おしなべて、武を好む人多かり。百度戦ひて百度勝つとも、未だ、武勇の名を定め難し。その故は、運に乗じて敵を砕く時、勇者にあらずといふ人なし。兵尽き、矢窮りて(きわまりて)、つひに敵に降らず、死をやすくして後、始めて名を顕はすべき道なり。生けらんほどは、武に誇るべからず。人倫に遠く、禽獣に近き振舞、その家にあらずは、好みて益なきことなり。

[現代語訳]

人は自分とは関係の無い事を好むようだ。法師は武道を志して、東国の武士は弓の引き方も知らないで、仏法を知っているような様子を見せて、連歌を詠んだり、管絃(楽器)を楽しんだりしている。しかし、自分自身の実力がない本業の道よりも、趣味的な事柄のほうが相手に軽侮されないだろう。

法師だけではなく、皇族や上級貴族、役人に至るまで武術・武道を好む人は多かった。しかし、百回戦って百回勝っても、武勇の名誉は定まらないだろう。気運に乗じて敵を打ち破れば、誰もがその人を勇者というだろう。だが、兵が尽きて矢が無くなったような状況で、敵に降伏せず死を恐れずに戦って初めて、武人としての名誉が得られるのである。(死を恐れて)生きようとしているようでは、武勇を誇ってはならない。戦争は人倫の道(正しい生き方)に遠く、禽獣に近い振舞いをするということだ。武門の家に生まれたのでなければ、好んでするだけの価値があることではない。

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[古文]

第81段:屏風・障子などの、絵も文字もかたくななる筆様して書きたるが、見にくきよりも、宿の主のつたなく覚ゆるなり。

大方、持てる調度にても、心劣りせらるる事はありぬべし。さのみよき物を持つべしとにもあらず。損ぜざらんためとて、品なく、見にくきさまにしなし、珍しからんとて、用なきことどもし添へ、わづらはしく好みなせるをいふなり。古めかしきやうにて、いたくことことしからず、つひえもなくて、物がらのよきがよきなり。

[現代語訳]

屏風・障子に、見苦しい上手くない筆遣いで絵や文字が書いていると、その字の下手さよりも、宿(家)の主人の品性・趣味が劣っていると感じてしまう。

大体、持っている家具・道具を見てみても、思っていたよりも趣味が劣っているなと感じることはあるものだ。それほど良いものを持つ必要はない。しかし、壊れないようにと思って、品性のない感じで醜く補強してみたり、珍しいからといって、実用性のない飾りを付け加えて、煩わしいデザインにするのはみっともないのである。歴史のある古めかしい感じで、おおげさ過ぎることがなく、破損することもなく頑丈で、品質の良いものが良いのである。

[古文]

第82段:「羅(うすもの)の表紙は、疾く(とく)損ずるがわびしき」と人の言いしに、頓阿(とんあ)が、「羅は上下はつれ、螺鈿(らでん)の軸は貝落ちて後こそ、いみじけれ」と申し侍りしこそ、心まさりして覚えしか。一部とある草子などの、同じやうにもあらぬを見にくしといへど、弘融僧都(こうゆうそうず)が、「物を必ず一具に調へんとするは、つたなき者のする事なり。不具なるこそよけれ」と言ひしも、いみじく覚えしなり。

「すべて、何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず、造り果てぬ所を残す事なり」と、或人申し侍りしなり。先賢の作れる内外の文にも、章段の欠けたる事のみこそ侍れ。

[現代語訳]

『薄い布で装飾した書物の表紙は、すぐに痛んでしまうのが困る』と人が言った。和歌四天王のひとりである頓阿はそれに対して、『表紙の薄い布の上下がほつれてから。螺鈿細工の巻物は軸の貝が落ちてから。その後から味わいが出てくるのだ』と答えた。その言葉には、素晴らしい発想だと感心してしまった。

何冊かで一つにまとめられているシリーズものの草子(書物)が、同じ体裁(デザイン)でないのは見にくいと誰かが言ったが、弘融僧都は『本をすべて同じような体裁に整えようとするのは、センスのない人間のすることだ。不揃いのほうが良いではないか』と言った。この考えも、面白いと思った。

『全てをなにもかも、整えてしまうのは悪いことである。やり残した部分を残しておくというのが、(未来でも完成させるまでに時間がかかるので)生き延びさせる工夫なのだ。朝廷の内裏を造営する時にも、必ず造り終わっていない部分を残しておく』と、ある人が申し上げていた。優れた先人の書き残した書物にも、章段が欠けていて未完成の部分がある。

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