『徒然草』の69段~71段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の69段~71段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

第69段:書写の上人は、法華読誦(ほっけどくじゅ)の功積りて、六根浄(ろくこんじょう)にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻(から)を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるる豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるるはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞こえる。

[現代語訳]

書写山円教寺の性空上人(しょうくうしょうにん)は、法華経を読誦し続けた功徳によって、仏教経典でいう『六根』が清浄になり悟りを開いた人物であった。旅の仮屋に立ち寄った時に、豆のカラを炊いて豆を煮ている音がつぶつぶと鳴るのを聞いたところ、『(豆のカラと豆の関係で)親密であるべき、己らたちも、恨めしくも、我(豆)を煮て、つらい目に遭わせるつもりなのか』と豆が言っている。火で炊きつけられている豆ガラのばらばらと鳴る音は、『私が心から好きでやっていることと思うか。焼かれることはどれほどか堪えがたいことだけど、どうしようもないことなのだ。そんなに俺たち「豆カラ」のことを恨んでくれるな』とか聞こえた。

『六根』というのは人間の不確実で錯覚の多い感覚機能のことで、『眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根』の6つのことを指している。現代風に言い直せば、『視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意志力(こころの働き)』の6つの感覚と意志の機能のことであるが、仏教ではこれらの六根を清らかにして真理に目ざめることで『悟りの境地』に到達できると教えている。

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[古文]

第70段:元応(げんおう)の清暑堂(せいしょどう)の御遊(ぎょゆう)に、玄上(げんじょう)は失せにし比、菊亭大臣(きくていのおとど)、牧場(ぼくば)を弾じ給ひけるに、座に著きて(つきて)、先づ柱を探られたりければ、一つ落ちにけり。御懐にそくひを持ち給ひたるにて付けられにければ、神供(じんぐ)の参る程によく干て(ひて)、事故(ことゆえ)なかりけり。

いかなる意趣かありけん。物見ける衣被(きぬかづき)の、寄りて、放ちて、もとのやうに置きたりけるとぞ。

[現代語訳]

後醍醐天皇即位の前祝いの席で、琵琶の名器『玄上』が盗まれていた時期だったが、菊亭大臣(琵琶の名手とされた藤原兼季)が琵琶を弾くことになった。菊亭大臣は同じく琵琶の名器とされる『牧場』で音楽を弾くことになった。演奏の座についた菊亭大臣は、まず琵琶の柱を探って確認をしてみたが、琵琶の弦の支柱が一つ落ちてしまった。しかし、懐にノリ(糊)を持っていたので、それで支柱をくっつけて、神へ供え物を捧げる儀式の間にすっかりノリが乾いたので、事故にはならなかった。

どんな恨みがあったのだろうか、見物していた衣をかぶった女が、琵琶に寄ってきて、支柱を放り投げて(支柱をひきちぎって)、元のように戻したんだと言われている。

[古文]

第71段:名を聞くより、やがて、面影は推し測らるる心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ、昔物語を聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。

また、如何なる折ぞ、ただ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心の中に、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。

[現代語訳]

その人の名前を聞くと、すぐにその人相まで想像できる感じがするが、実際に会ってみると思い出したままの顔をしている人はいない。昔の物語を聞いても、昔の人の家が今ではその辺にあるのだろうかと思い、昔の人物にしても、今いる人々に重ねて想像してしまうが、誰もがそのように思っているのだろうか。

また、ふとした時に、たった今、人の言った事も、目で見た物も、自分の心の中でこういった事が以前にあったぞと思ったりする。それがいつだったのかは思い出せないんだけど、本当にこれらのことが過去にも確かにあったはずだと感じるのは、私だけがそう思うのだろうか。

現代風に解釈するのであれば、これは『デジャヴュ(既視感)』についてのエピソードである。

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