『徒然草』の46段~49段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の46段~49段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

46段.柳原(やなぎはら)の辺に、強盗法印(ごうとうのほういん)と号する僧ありけり。度々強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。

[現代語訳]

柳原(京都市上京区柳原町)の辺りに、強盗法印と号する僧がいた。度々、強盗にあったために、この名をつけたそうだ。

[古文]

47段.或人、清水へ参りけるに、老いたる尼の行き連れたりけるが、道すがら、「くさめくさめ」と言ひもて行きければ、「尼御前、何事をかくはのたまふぞ」と問ひけれども、応 へもせず、なほ言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹立てて「やや。鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君の、比叡山に児にておはしますが、ただ今もや鼻ひ給はんと思えば、かく申すぞかし」と言ひけり。

有り難き志なりけんかし。

[現代語訳]

ある人が、老いた尼僧を連れて、京都の清水寺に参拝した。尼僧がその道の途中で『くさめくさめ(くしゃみをした時に、生命が弱らないように唱える呪文・まじないのようなもの)』と言いながら歩くので、『尼御前。なにをぶつぶつ言ってるのですか?』と尋ねたのですが返事がない。

なお尼僧が言いやまないので、何度も問いかけていると、尼僧は腹を立てて『あぁ、くしゃみをした時に、このようなまじないを唱えないと死んでしまうというでしょう。私が養育した若君が、比叡山で修行をしているのですが、もしも今くしゃみをしていたらと思うと心配で堪らないので、このようにくさめくさめと申し上げているのです』と答えた。

なかなか有り得ないような、ありがたい志(気持ち)ではないだろうか。

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[古文]

48段:光親卿(みつちかのきょう)、院の最勝請(さいしょうこう)奉行してさぶらひけるを、御前へ召されて、供御(ぐご)を出だされて食はせられけり。さて、食ひ散らしたる衝重(ついがさね)を御簾の中へさし入れて、罷り出で(まかりいで)にけり。女房、「あな汚な。誰にとれとてか」など申し合はれければ、「有職(ゆうそく)の振舞、やんごとなき事なり」と、返々(かえすがえす)感ぜさ給ひけるとぞ。

[現代語訳]

光親卿(藤原光親)は、院(後鳥羽上皇の在所する仙洞御所)で最勝講(五月に各寺の高僧を集め天下太平を祈念する儀式)の奉行としてお仕えしていた。光親は上皇の御前へ召し出されて、供御(上皇の食べかけの食事)を出されて食わされた。

さて、光親は食い散らかした衝重(料理を載せる膳)を上皇の居る御簾の中へさし入れて、退出した。女房たちは、『あぁ、汚い。誰がこれを片付けるのか?』などと愚痴を言い合ったが、後鳥羽上皇は『古来からの礼儀作法に通じた振る舞いは、並々ではない素晴らしいものだ』と、何度も繰り返し感心していらっしゃったという。

[古文]

49段:老(おい)来りて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。はからざるに病を受けて、忽ち(たちまち)にこの世を去らんとする時にこそ、始めて、過ぎぬる方の誤れる事は知らるなれ。誤りといふは、他の事にあらず、速かにすべき事を緩くし、緩くすべき事を急ぎて、過ぎにし事の悔しきなり。その時悔ゆとも、かひあらんや。

人は、ただ、無常の、身に迫りぬる事を心にひしとかけて、束の間も忘るまじきなり。さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。

「昔ありける聖は、人来りて自他の要事を言ふ時、答へて云はく、『今、火急の事ありて、既に朝夕に逼れり(せまれり)』とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。心戒といひける聖は、余りに、この世のかりそめなる事を思ひて、静かにつゐけることだになく、常はうづくまりてのみぞありける。

[現代語訳]

老いが迫ってきてから初めて、仏道の修行をしようというのではいけない。古い墓も、多くは少年の墓である。予想もせずに病気にかかり、間もなくこの世を去ろうとする時にこそ、過去の誤っていた行いが思い出されてくる。誤りというのは他でもない。優先して速やかにすべき事を後回しにして、後でもできる事を急いでやったということであり、こういった過去の過ちを悔しく感じるのである。しかし、死が差し迫った時に後悔しても、どうしようもない。

人間はただ諸行無常の真理の下に、死が迫ってくることをしっかり意識して、わずかの間といえども、それを忘れてはならないのである。そうすれば、俗世の煩悩も弱まっていき、仏道に精進しようという心も切実なものになっていくのだ。

禅林の永観が書いた『往生十因』には、『ある僧は人が訪ねてきても念仏をやめようとはせず、「いま火急の事があって、すでに朝夕(死)が迫り余裕がない」と答えた。そのまま、耳をふさいで念仏を唱え続けて、遂に極楽往生を果たした』とある。心戒という聖人の僧侶は、この世があまりに仮のものに過ぎないと思って、座る時にも尻をつける事がなく、常にうずくまっていたと言われている。

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