『徒然草』の28段~30段の現代語訳

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兼好法師(吉田兼好)が鎌倉時代末期(14世紀前半)に書いた『徒然草(つれづれぐさ)』の古文と現代語訳(意訳)を掲載して、簡単な解説を付け加えていきます。吉田兼好の生没年は定かではなく、概ね弘安6年(1283年)頃~文和元年/正平7年(1352年)頃ではないかと諸文献から推測されています。

『徒然草』は日本文学を代表する随筆集(エッセイ)であり、さまざまなテーマについて兼好法師の自由闊達な思索・述懐・感慨が加えられています。万物は留まることなく移りゆくという仏教的な無常観を前提とした『隠者文学・隠棲文学』の一つとされています。『徒然草』の28段~30段が、このページによって解説されています。

参考文献
西尾実・安良岡康作『新訂 徒然草』(岩波文庫),『徒然草』(角川ソフィア文庫・ビギナーズクラシック),三木紀人『徒然草 1~4』(講談社学術文庫)

[古文]

28段.諒闇(りょうあん)の年ばかり、あはれなることはあらじ。

倚廬(いろ)の御所のさまなど、板敷(いたじき)を下げ、葦の御簾(あしのみす)を掛けて、布の帽額(もこう)あらあらしく、御調度(みちょうど)どもおろそかに、皆人(みなひと)の装束・太刀・平緒まで、異様なるぞゆゆしき。

[現代語訳]

諒闇の年(天皇の父母が亡くなった時に服喪する期間)ほど、悲しくつらいことはない。1319年に、後醍醐天皇の母である談天門院・藤原忠子が亡くなり、後醍醐天皇が約1年間の喪に服した。

天皇が13日間の間、喪に服する仮御所の「倚廬の御所(いろのごしょ)」の様子は、板敷を下げてあり、庶民の用いる葦の御簾を掛け、布の帽額(御簾の外側に横長に張った布)は薄墨色で粗末である。家具の品々も質素なものである。服喪している天皇にお仕えする人々の装束・太刀・平緒まで薄墨色に染めてあって、その異様な様子も厳粛で重々しい感じがする。

[古文]

29段.静かに思へば、万に、過ぎにしかたの恋しさのみぞせんかたなき。

人静まりて後、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる(やりすつる)中に、亡き人の手習ひ、絵かきすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなるぞかし。手慣れし具足なども、心もなくて、変らず、久しき、いとかなし。

[現代語訳]

静かにもの思えば、すべて過ぎ去った過去のみが恋しくてどうしようもない。

人が寝静まった後には、長い夜の気慰めに、何となく身のまわりの道具を取り出して、残しておきたくない書き損じの手紙などを破り捨てている。その中に、亡き人が気ままに書き散らした文字や絵(落書き)などを見つけたのだが、それらを見ると昔のことを思い出してしまう。

まだ生きている人からの手紙でも古いものになってくると。どんな時にもらったものか、どのくらい昔にもらったものかと思い出しているうちに物悲しくなってくる。故人の使い慣れている道具は感情を持っておらず、昔と変わらずそのままの形であるのだが、それがとても悲しいのだ。

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[古文]

30段:人の亡き跡ばかり、悲しきはなし。

中陰のほど、山里などに移ろひて、便あしく、狭き所にあまたあひ居て、後のわざども営み合へる、心あわたたし。日数の速く過ぐるほどぞ、ものにも似ぬ。果ての日は、いと情なう、たがひに言ふ事もなく、我賢げに物ひきしたため、ちりぢりに行きあかれぬ。もとの住みかに帰りてぞ、さらに悲しき事は多かるべき。「しかしかのことは、あなかしこ、跡のため忌むなることぞ」など言へるこそ、かばかりの中に何かはと、人の心はなほうたて覚ゆれ。

年月経ても、つゆ忘るるにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつつ見れば、ほどなく、卒都婆(そとば)も苔むし、木の葉降り埋みて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。

思ひ出でて偲ぶ人あらんほどこそあらめ、そもまたほどなく失せて、聞き伝ふるばかりの末々は、あはれとやは思ふ。さるは、跡とふわざも絶えぬれば、いづれの人と名をだに知らず、年々の春の草のみぞ、心あらん人はあはれと見るべきを、果ては、嵐に咽び(むせび)し松も千年を待たで薪(たきぎ)に摧かれ(くだかれ)、古き墳(つか)は犂かれて(すかれて)田となりぬ。その形だになくなりぬるぞ悲しき。

[現代語訳]

人が死んだ後ほど、悲しいことはない。

四十九日の間、便利の悪い狭い山寺に大勢の人がこもって、亡くなった人の追善供養をするのだが、心が落ち着かない。その日にちが速く過ぎていくのは、何とも言えない気持ちだ。四十九日の最後の日は、とても薄情に感じられる。お互いに故人について語り合うこともなく、自分本位に要領よく身の回りの品々を整理して、山寺からバラバラに帰っていく。自分たちの本邸に帰りつくと、更に悲しいことは増えてくる。「これこれのことは、あぁ恐れ多い。後のために不吉なこととして忌むことにする」などと言うのは、これほどの悲しみの中でどうしてそういうこと(故人の死が不吉だということ)を言うのかと、人間の心が非常に情けないもののように思える。

何年経っても、私は亡くなった人を忘れないが、亡くなった人は次第に周囲の人から忘れ去られてゆく。周囲の人は故人の思い出を笑い話として語るようになるが、私は臨終の時のことを覚えておこう。死骸は人気のない山奥に埋められたが、然るべき時でなければ墓を訪れる者も無く、墓は苔蒸して枯れ葉に埋まり、夕方の風と夜の月だけが語り合う縁者になっている。

故人を思い出して偲ぶ人がいなくなれば、故人の面影はなくなってしまうだろう。その子孫の世代では、墓に眠る故人のことを直接知らず、ただそのありし日の姿を伝聞によって知るのみである。そして、子孫もいなくなってしまえば、誰も墓参りをする者もなく、誰の墓かも分からなくなる。(誰のものかも分からない墓の周囲で)春の草が生い茂る様子は、風流を解する人の情趣を強く誘うだろう。嵐に堪える松も千年を待たずに枯れて、薪にされる。古い塚は鋤かれ耕かされて、田んぼにされる。そういう風に形すら残せない人間の死というものは悲しい。

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